『ジュリー&ジュリア』
ジュリア・チャイルド(メリル・ストリープ)は1961年代にアメリカで「王道のフランス料理(Mastering the Art of French Cooking)」という本を出版して、その後には彼女がフランス料理を実際に作りながらレシピを紹介する看板番組「The French Chef」が10年以上にわたって放送され続けたということもあって、当時のアメリカの家庭や主婦に多大な影響を与えた人物だ(Wikipedia調べ)。
そして、ジュリー・パウエル(エイミー・アダムス)は、"「王道のフランス料理」に掲載されている全524レシピを365日間で全て自分で作ってみる"という企画のブログを開始する。
この映画では、1950年代後半〜1960年代(「王道のフランス料理)」出版直前まで)におけるジュリアのエピソードと、2002年〜2003年におけるジュリーのエピソードを交互に描かれている。ジュリアとジュリーがそれぞれ出版した2冊の回顧録を原作としていて、それを組み合わせてひとつの映画にしたかたちだ。ジュリーがある困難に直面した次の画面でジュリアも同じように困難に直面している、という風に、映画的な工夫もちゃんとなされている。
メリル・ストリープはアメリカ人の多くに馴染みのあるジュリア・チャイルドのキャラクター性を再現できているらしく、この映画におかえる彼女の演技は高評価されているようだ。公開年度のゴールデングローブ賞 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)も受賞している(Wikipedia調べ)。しかし、ジュリア・チャイルド本人がもともと甲高い声で演技過多でオーバーリアクションなキャラクターをしていたらしく、わたしはあんまり良い印象を抱けなかった。中年〜老年のくせに年甲斐もなく"可愛らしい"キャラクターを演じるところが苦手だ。
一方で、ジュリーが登場する場面はかなり面白く見ることができた。というのも、ジュリーのエピソードでは「料理」以上に「ブログ」というテーマが強調されているからだ。
2002年という時代性もあり、アメリカでも当時はブログはそこまで一般的なメディアではなく、やや物珍しいものだったように思われる(ジュリーがブログを始めたことを母親に伝えると「そんなくだらないことすぐにお止めなさい」という風に大反対されるシーンもある)。作家を目指して挫折した経験のあるジュリーは現在の仕事を不満に思っており、ブログを始めることで自信を取り戻すが、ブログが軌道に乗るにつれてだんだんと自意識過剰になってきてしまい、仕事や夫との生活よりも料理とブログを優先してしまったりする。つまり、彼女はブログに振り回されてしまうのだ(とはいえ、結局はブログが書籍化して、諦めていた"作家になる"という夢も叶う、というハッピーエンドになるのだが)。…自分が実際に日銭を稼いでいる仕事よりもブログ執筆の方が充実感を抱けて優先したくなる、という感覚はわたしも経験があるし、ブロガー特有のナルシシズムや調子に乗っている感じを明け透けなくコミカルに描いている点は好感が抱ける。「ブロガー」という共通点のほかに性格面でもいろいろとジュリーと自分に共通しているところが発見できて、わたしは感情移入して観ることができた。
エイミー・アダムスは活動的で元気だがちょっと自己中心的な要素も強いジュリーのキャラクターをうまく演じられていたし、生活感のあるファッションや髪型も可愛らしくて、視覚的にも楽しかった。
とはいえ、この作品では、ジュリーはジュリアに比べて"格下"の存在として描かれている。オープニングシーンとラストシーンの両方で登場するのはジュリアであるし、90歳になったジュリアがジュリーのブログの話を聞かされて不快感を示す、というエピソードも挿入される(その場面ではジュリアは登場せず、ジュリーが編集者から電話口でその事実を聞かされてショックを受ける、という描き方である)。友人たちの協力も多少はあったとはいえ、ジュリアは自分でいちから料理教室に通いレシピを練り上げて出版社に売り込んで…と、積極的な創造行為を行なっている。それに比べてジュリーはすでにジュリアが創作したレシピ本をネタにして料理を作っているだけであり、創造性という観点ではジュリアに及ぶべくもない。インターネットにおけるブロガーやライターたちなんて所詮は先人や本物のクリエイターが創造したものに乗っかるコバンザメ的な存在に過ぎない、ということを観客に思い出させる、なかなかスパイスの効いたエピソードだ*1。…ただし、忘れてはいけないのは、ブログという文化の黎明期に年単位の企画を考案してやり通したジュリーだって、ジュリアには及ぶべくはないとしても彼女なりの開拓者精神や根性を持った人物だった、ということである。人口に膾炙して飽和状態にある現代のインターネットでは、ジュリーのコバンザメにすらなり切れないような創造力ゼロの雑魚がうじゃうじゃといることであろう。
ところで、この映画は題名やパッケージの雰囲気から察せられる通り、女性をターゲット層にした作品であるところは間違いない。ジュリーの夫にせよジュリアの夫にせよ、妻に対してやたらと理解があって気が利いてスキンシップも沢山してくれて…というのは少女漫画的な"理想の男性像"そのものであって、男性であるわたしは見ていて胸焼けがした。また、キスシーンやセックスを連想させるシーンの多さには辟易した。「料理」や「食事」をテーマにしている映画で「セックス」や「スキンシップ」を強調されるのは、かなり不潔な感じがして気色が悪かったのだ。
*1:このブログにおける考察を参考した。