THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『東京物語』

 

東京物語 ニューデジタルリマスター

東京物語 ニューデジタルリマスター

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 この作品を最初に見たのは(例によって)10年以上前の大学生の頃だ。立命館大学の図書館には視聴覚コーナーがあって、けっこう気軽にDVDをその場で借りて見ることができたので、授業の合間に図書館に行ったり授業をサボったりとかしながらいくつもの作品を図書館で見ていた思い出がある。『東京物語』もそんな作品のひとつだ。

 ただ、図書館で見ている間はずっと同じ席に座っていなければならないし、画面も大して大きくなければメシを食ったり飲み物を飲んだりすることもできないのだから、集中を保つことはなかなか難しい。次々とイベントが起きて場面転換する90分程度のエンタメ作品ならばちょうどいいのだが、大学図書館に所蔵されている作品である以上は「お勉強」のために観ることを想定されており、映画史に残る名作や発展途上国で制作された作品や深刻な社会問題を扱った真面目な作品などにならざるを得ないので、一部の例外を除けば、どの作品もけっこうしんどい思いをしながら作品を見ていた覚えがある。

 そんなしんどい思いをしながらなんでわざわざ映画を見ていたんだという話であるが、当時はまさに「お勉強」感覚で、「時間の余っている学生であるうちになるべく多くの本や映画に触れておかなければ」と焦りながら色んなものを摂取していたのだ(けっきょく大学卒業に数年フリーターをやって時間を持て余す生き方をしてしまったところがアレだが)。

 …そして、『東京物語』は大学図書館で見るには最悪の映画のひとつだ。135分とそれなりの長丁場であるし、小津安二郎は場面転換を全然しないことが持ち味である。悠長で一見すると無意味な会話も多いし、後半の危篤シーンを除けば特に大きなイベントが発生するわけでもない。ついでに言うと『秋刀魚の味』などと違って白黒だ。なので、見終わった後には「名作なんだろうけどつまらないし見返したいという気持ちはないなあ」と思いを抱いてしまっていた。

 

 しかし、昨日にNetflixに追加されたと聞いて、いい機会だと思って再視聴してみた。そうして、ようやくこの映画の良さがわかったわけである。そもそも、(劇場で見るならともかく)小さい画面に135分もクギ付けになって見るような映画ではない。味のある顔の役者たちをカメラ目線のアップで映す会話シーンも、ふと挿入される屋内の静物を独特な構図で映す画面も、どれも素晴らしいものではあるが、ストーリー自体は一気に見なければ感慨が得られないというタイプのものでもない。間に家事をしたり作業をしたりしながら、箸休め感覚で見るのがちょうどいい作品であるのだろう。

 

 また、今回に見てみて発見したのは、ストーリーが記憶よりもずっと良くて感動的ですらある作品だということだ。

東京物語』は基本的には「親子の関係」、もっと限定すれば「親孝行」をテーマとしている。以前と違ってストーリー見に染みて理解できるようになったのは、わたしの側の境遇の変化も大きいだろう。20代から30代になって親の死期も徐々に近付いているはずだし(まだ両親はピンピンしてはいるが)、実家を出て東京に出てきたという点ではこの作品に登場する子どもたちと全く一緒だ(医者になったり美容師になったりしてもちろん結婚もして成功しているこの作品の子どもたちと、最近まで無職でようやく再就職したばかりの独身のわたしとでは境遇にかなりの差があるけれども)。観ていると、「自分もそろそろ親孝行をした方がいいかな…」と思わされてしまうのだ(経済状況的にあと10年20年はロクに親孝行ができそうにないが)。

 

 平山家の父親の周吉(笠智衆)と母親のとみ(東山千栄子)、次男の未亡人となった嫁の紀子(原節子)の主要人物三人を演じる役者は言うまでもなく素晴らしい。長女の志げ(杉村春子)の「悪役」っぷりも印象的であるし、三男の敬三(大坂志郎)や次女の京子(香川京子)も出番は少ないながら光っている。また、周吉が友人の服部(十朱久雄)と飲み屋で酒を飲むシーンはこの映画のなかでは異色であるが、いかにも日本人的なだらしのない酔っ払い方が印象的だった。

 

 笠智衆東山千栄子も味わい深いが、原節子が演じる「紀子」はその華やかな見た目も善性の塊のような人間性も他のキャラクターたちからは浮いていて、この映画に輝きを与える存在であるだろう。

 たまたま図書館から『小津安二郎の喜び』という本を借りていたところなので、ここに書かれている「紀子」評をちょっと引用してみる*1

 

東京物語』は、紀子という女性の深い<潜在性>を起点にして、さまざまな人物が<現実性>の変化する無数の度合いを繰り広げる。この映画のドラマとしての精彩、起伏、奥行は、これによって生み出されている。諸性格の対立や闘争から引き起こされるドラマではない。人が在ることの<現実性>の度合、無数の水準が、いつも共存することから生まれてくるドラマである。紀子だけが、共存するそれらの諸水準を、言い換えると、実にさまざまな人たちの身の上を、微笑しながら包むことができる。こんな人間は、現実にはいやしないと言ったところで仕方がない。「紀子」は、キャメラによる知覚が、原節子の身体と人格とを通して創造した小津映画の化身なのだ。

東京物語』のスリッパのショットが示す<在るもの>への愛は、紀子において、ひとりの女性の姿を撮って顕われる。語り、微笑し、黙して働き、人々のために尽くす。親孝行の何であるかを、周りにいる者たちに易々と示す。紀子とは、<在るもの>への愛それ自体だと言ってもいい。東京に住む誰もが忙しがっている時に、彼女は決して自分が忙しいとは言わない。義父から忙しくはないのかと尋ねられても、にこやかに否定する。それが、最も基本的な道徳の心得だからだ。この心得を忘れた人間にとっては、親孝行はとてつもなく難しいものに感じられる。大金をはたいて温泉にでもやらなければ逃れられない難事に感じられるのである。

小津は、撮影中のインタビューで言っている。

「肉親には肉親ゆえの嫌悪感がある。この感情を子供達を通して描いてみたい。これに対して他人ゆえの同情というものを、未亡人となりながら亡夫の両親につくす女性によって現そうというのだが、この女性もやがては自分の道を求めて去る」。

(p.208)

 

 しかし、「親孝行」がテーマであることと言い、聖女過ぎて人間味がちょっと感じられない紀子の描写といい(終盤における彼女の"告白"シーンですら「そんなことに罪悪感抱く奴がいるか?」という感じで逆に彼女の聖人っぽさを強調している)、現代の映画ではちょっと作ることができないような「保守的」な作品であることは間違いない。 現代の日本における映画制作者も、どうせ世界の映画における「先進的な価値観」の潮流には乗れない(乗ってもどこかで勘違いした描写をしてしまい醜態をさらす)んだから、これくらい素朴で保守的な価値観に回帰した作品を撮ってみる方が差別化できていいかもしれない。実際には、彼らが回帰したがっている1970年代辺りのバイオレンスな路線であるようだが…。

 

 ところで、片隅であるとはいえ東京の街で開業医になって家庭も持っている長男すらもが、周吉からは「うだつのあがらない息子」扱いされてしまうシーンには、隔世の感を抱いた。まあこの映画で映される尾道(と熱海)の海の様子はほんとうに素晴らいし、東京に生活している時点で仕事面でどれだけ成功しても忙しなく雑多で小汚い生活になってしまう、というところは否めないかもしれないが…。

*1:

 

小津安二郎の喜び (講談社選書メチエ)

小津安二郎の喜び (講談社選書メチエ)

  • 作者:前田 英樹
  • 発売日: 2016/02/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 ただし、この本自体は各作品のあらすじの解説で紙幅を埋めている感じがありありだし、引用部分でも示されている通り大げさで持って回った言い回しが多すぎて、あまり大した本であるとは思えない。