『セブン』
同じデビッド・フィンチャー監督でブラッド・ピット準主演な『ファイト・クラブ』に比べて、同じ時期(10年以上前の学生だった頃)に初視聴した『セブン』についての記憶は「オチがすごかったのは覚えているし、スパゲッティを食わせまくる殺し方のえげつなさも印象的だったけど、それ以外は覚えていないや」というものだった。
久しぶりに見てみても、たとえば『ファイト・クラブ』のような批評性もないし、『ゴーン・ガール』に比べても人間描写は薄くて、あれこれ語りたくなるような要素が少ない作品であることは確かだ。
しかし、サスペンス映画として滅法に面白い。
テンポも早過ぎず遅過ぎずでちょうどいいし、ミルズ刑事(ブラッド・ピット)とサマセット刑事(モーガン・フリーマン)とジョン・ドゥ(ケヴィン・スペイシー)の三者のキャラクター描写のシンプルさと無駄のなさとそれでいながら個性をしっかり描けている点は見事なものだ。
七つの大罪に見立てたエゲつない殺し方も、エゲつなさのわりには映像はそこまでグロくなく、"高慢"の死体に至ってはお洒落ですらある。基本的に殺された後の結果しか出てこなくて、惨たらしい拷問を受けて死ぬまでの具体的な過程は観客の想像に任せるかたちになっている。というのも、ストーリーの展開的に"七つの大罪に見立てた惨たらしい殺し方をする犯人"という存在は重要な要素であっても、惨たらしい殺し方の具体的な内容自体は、実は作劇的にはそこまで重要な要素ではない。だから、凡百のサスペンス映画ではウリになるような拷問パートは一切描かずに、その結果だけを示す……この思い切った取捨選択は、『セブン』以降の現代の監督でもなかなかできるものではないだろう*1。
まさに「スタイリッシュ」を極めたサスペンス映画だと言える。
「後味が悪いバッドエンド」という印象が強かったラストの展開も、改めて見てみると印象が全然違う。いま見ても緊迫感はすごいのだが、ミルズが憤怒に囚われてから逡巡を経たうえで実際に行動に移るまでの独特な間*2、そして呆気に取られているうちにサマセットによる「ヘミングウェイがかつて書いた言葉がある。”この世は素晴らしく、戦う価値がある”と。後半には同意する」というナレーションが入ってサクッとエンディングに移行するテンポ感が素晴らしくて、後味が悪いどころか爽快感すらあってなぜか前向きな気持ちになってしまうのだ。『セブン』と同じように「グロさ」や「後味の悪さ」に「スタイリッシュさ」もウリにしていた『SAW』の500万倍は素晴らしいエンディングである。
『ファイト・クラブ』のときにも言及したようにフィンチャー監督は価値観やテーマには実のところあまり興味を持っていないフシのある監督であり、サマセットが図書館に行って『失楽園』とか『カンタベリー物語』とかを手に取りながら「七つの大罪」について調べるシーンも雰囲気作り以上のものはないのだろう。だが、全編にわたってその雰囲気作りが優れていて見事なので、ぜんぜん許せてしまう。
ミルズ刑事の「情」とサマセット刑事の「知」を対比するキャラクター描写は、一歩間違えたら陳腐になりそうなところをうまくかわしながら、二人の個性を描いて感情移入もさせることに成功している。ミルズの妻であるトレイシー(グウィネス・パルトロー)をはじめとした脇役の扱い方も優れているし、意表をつくようなタイミングでジョン・ドゥがひょっこりと出てきてそこから物語が一気に加速する展開もすごいものだ。
初めて視聴してからの10年以上の間に良いものも悪いものも含めて幾多のサスペンス映画を観てきたからこそ、『セブン』の出来の良さが理解できるようになった。サスペンス映画は数多くあるが、そのなかでも『セブン』は一級品である。サスペンス映画とは、テーマや複雑な設定なんてなくてもキャラクター描写と脚本のテンポと演出が優れていればそれだけで優れたものになり得るジャンルであり、だからこそキャラやテンポや演出がグダグダなためにダメダメな出来になっている作品も多いものだ。だが、技巧派の極みであるようなフィンチャー監督とサスペンス映画との相性は、ピカイチであるのだろう。