THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

韓国映画は英語吹き替えで観ることにした(『ザ・コール』)

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 在日アメリカ人であり子供の頃から「家のなかでは英語、外では日本語」という風に暮らしてきたわたしは、逆説的に、語学に関してハンディキャップを持っている。ふつうの日本人であれば中学校から大学まで苦労しながらイヤイヤ英語を勉強させられることで「語学を学習する方法」を身に付けるところ、自然と英語が使えるようになったわたしはその方法を知らないまま成長することになるのだ。なので、大学になってから第二外国語(フランス語)をやらされても、そもそも単語や文法をイチから覚えるという経験がないものだから、単位は壊滅的なものとなってしまった。

 そして、映画の鑑賞においても同様のハンディキャップがある。テレビで流れてきたりビデオ屋で借りれたりする映画の大半って英語か日本語だ。英語の作品を観るときには字幕を付けて見るし、全てのセリフが聞き取れるわけでもないが、それでもだいたいのセリフは理解できる。つまり、字幕だけを目で追って内容を理解するのではなく、「耳」からもかなりの情報が入ってくるのだ。だから字幕では表現しきれないニュアンスや感情も問題なく把握できるし、ずっと画面に目を釘付けにして集中して観る必要はない。

 しかし、フランス語や韓国語の映画となると、字幕をつけて観ざるをえない。洋画が好きで、しかし英語がわからない日本人の多くは「耳からの情報に頼らず、字幕だけを目で追って作品を理解する」という経験を(ハリウッド映画などを字幕付きで観ることで)子供の頃から積んでいるだろうが、わたしはそうではない。なので、ふつうの日本人以上に、英語でもなく日本語でもない映画に抵抗感があるのだ。

 

 

 アメリカ人がすぐに非アメリカ映画をリメイクしたがることについて意識の高い人は揶揄したりポリコレ的な観点から批判したがるけれど、自分の国の映画がハリウッド映画である国とそうでない国とでは他国の映画に対する"慣れ"や"敷居"が違うのは当たり前の話である。自国にある面白い映画の数が限られている日本人や韓国人やフランス人はそりゃ他国の映画を鑑賞する経験に慣れるだろうけれど、アメリカ人からすれば、他国の映画を観る必要ってかなり薄い。だからたまに余所の国がおもしろい映画を作ったなら、リメイクしたほうが、より多くのアメリカ人がその作品に触れられることになるのだ。だってニューヨーカーとかカリフォルニアンとかだったら韓国映画も観にいくかもしれないけれどテキサスの人とか観にいかないでしょ多分。

 

 このブログで非英語・非日本語映画の評価が辛くなりがちなのも、まず鑑賞における集中力や時間(日本語や英語の作品なら家事しながらでも観れるけど、耳で情報が入ってこない作品はそういうわけにはいかない)といった「コスト」が跳ね上がるので、その「コスト」に見合うだけのクオリティやおもしろさを作品に要求してしまう(そして大体においてその要求は満たされない)からである。

 

「じゃあ吹き替えで観ればいいやんけ」と言われたらたしかにそうなのだが、わたしは洋画の日本語吹き替えってマジで苦手だ。どうにも日本の声優の演技が受け付けず、どんな作品であっても、途端にアニメのような安っぽいものとして感じられてしまう。せっかくのフランス映画や韓国映画も、途端に「邦画」になっちゃうのだ。

 しかし、Netflixオリジナルの韓国作品に関しては、日本語版サイトからも英語吹き替えが選択できるようだ。それで、評判の良い『ザ・コール』を試しに英語吹き替えで観てみたら、これがとてもマッチしていた。かわいいかわいいパク・シネが英語でFuck! だとか Bitch! だとか叫んびながら激昂したり慌てていたりする姿にまったく違和感がなかったのだ。声優の演技もぜんぜんヘンではなく、日本語吹き替えに比べてもずっとクオリティが高いと思う。また、だいたいにおいてケレン味が過剰でトンチキな韓国映画の世界観は、アメリカ映画と同じくらいには虚構性が高いので、英語にすれば「洋画」のひとつとしてスルスルと観れちゃうのだ。これなら、今後も韓国映画(やフランス映画や香港映画)は英語で観れば苦手意識を抱かずに楽しんで観れるな…と思ったところ、Netflixでも英語吹き替えが用意されているのはオリジナル作品だけなようであり、気になっている『エクストリーム・ジョブ』にも『EXIT』にも『スウィング・キッズ』にも吹替は用意されていなかった。残念。

 

 というわけで前置きが長くなったけれど、『ザ・コール』、なかなか面白かった。なんといっても主人公のパク・シネが可愛いし、悪役のチョン・ジョンソもエロくてよかった。

「同じ家のなかで10年の時を超えて通じる電話」というタイムトラベル要素を使ってサイコ・ホラーを描くという発想がまず優れている。序盤における虐待を受けている悪役に対して主人公が未来の世界の有様を電話で教えるシーンなどにはタイムトラベルもの特有のワクワク感やファンタジー性があるし、悪役が主人公の父親を助けて良い方向に運命を変える描写を挟みながらも、不穏さを小出しにすることで徐々にホラーへと転調させていく……という構造がかなり巧みに成立している。「未来を変えれる悪役」と「過去に関する情報を把握している主人公」がそれぞれの優位性を活かしながら駆け引きして戦う展開にはSF能力バトルといった趣もあるし、しかしケレン味に振り切らずに恐怖や緊迫感を失わないところも素晴らしい。悪役の母親に関するミスリードも優れているし、気の毒な警官やイチゴ屋さんなどの脇役もなかなかの存在感だ。

 とはいえ、惜しいところもいくつかある。せっかくの「駆け引き」要素も、悪役を爆死させる主人公の策が失敗して以降は失われてしまい、主人公の母親と警官が悪役の家を訪れて以降のクライマックスの展開では「タイムトラベル電話」のギミックがほぼ活かせていない。「そこから逃げて」と喚き続けるだけだったら、10年後の未来から電話をかける必要がないからだ。

 タイムトラベル電話により悪役の助力を借りることで死んだはずの父親を復活させて、火傷も消せたのに、けっきょく父親は悪役に殺されるし火傷も元に戻る、という運命論的な展開はタイムトラベルものの定番ではあるけれど、収まりがよい。そして、諸々の事件をきっかけとして母親のありがたみがわかる、というエンディングも教訓的で、かなりスマートであると思う。

 ……だからこそ、悪役の勝利で終わってしまい主人公の苦闘が台無しになるラストの後味の悪いオチはいらなかった。そもそも主人公は全く悪いところのない善人(そして美人)であるのだから、あんな酷い目にあういわれはない。主人公がこれまでよりもずっとひどい運命に置かれるのに悪役は本来の末路よりもずっと条件の良い未来を手に入れる、というのも理不尽だし、エンディングまで作品に一貫していた運命論にも反しているだろう。細かく考えれば、矛盾点やツッコミもいっぱいあるはずだ。

 ジェイク・ギレンホール主演のエイリアン映画『ライフ』のオチについても思ったけれど、いくらホラー映画だからといって、「後味の悪いオチを描かなければならない」と義務付けられているわけではないのだ。後味の悪いオチになることが作品のストーリーやテーマ的に必然性のあるホラーもあるだろうけれど、作品で描いてきたテーマや主人公たちの苦闘やそれによる感動を台無しにするタイプのオチには、「ホラーだから最後は胸糞悪くしなきゃ」という手癖や惰性が感じらレてしまうのである。