THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

Netflix(US)的価値観が良いことなのか?

 

ポジティブ病の国、アメリカ

ポジティブ病の国、アメリカ

 

 

 

 このブログをはじめてから「あの映画はポリコレ要素のせいでマイナスになった」「この映画はフェミニズムの主張が強すぎてつまらない」ということばっかり書いているような気がするが、私自身の一応のスタンスとしては、「ポリコレは作品を必ずダメにする」とか「作品はフェミニズムを意識する必要はない」などとは判断しないようにしている。ポリコレやフェミニズムなどの「コード」は、作品を良くする場合もあれば、作品をダメにする場合もある。大切なのは、作品の製作者が「コード」に対してどのように向き合っているかだ。

 

 現代の洋画を観たり海外ドラマを観ている人たちであれば、海の向こうの欧米で作品を製作している環境には大量不定形な「コード」が存在しているらしいことが、感覚的に理解できるだろう。明確に「どの作品においてもこういう描写を入れてこういうテーマを入れなければいけない」と指定されているわけではないが、ある種の配慮や目配せをしておくことで、その作品が「先進的」なものであるとされたり「ダサくない」ものとされたりする。

「コード」にも様々な種類があるが、いちばんイメージがしやすいのは「ダイバーシティ」だろう。一昔前には「最近のハリウッドではどの作品もストーリーやリアリティを無視して主要登場人物の人種を均等に配分しようとする」とい批判がよく聞こえてきたものだ。

 最近では「コード」はもっぱら性に関するものが主流である。先進的な作品であればあるほど「LGBT」や「クィア」を入れたがるものだし、また女性を主人公にする映画であれば必ずといってほど「シスターフッド」を強調しようとする。逆に、男性同士の連帯を美化して描くことはコードに反しており、「ホモソーシャル」の問題点や有毒性を描写しなければ先進的であるとはされない。

 これらの「コード」は作品から飛び出してハリウッド俳優たちの振る舞いや言動すらも支配することになる。英国アカデミー賞で主演男優賞や助演男優賞を受賞してしまったホアキン・フェニックスやブラッド・ピットは、「非白人の不在」についてエクスキューズをしなければいけなかった。ナタリー・ポートマンアカデミー賞にノミネートされなかった女性監督たちの名前をドレスに刺繍することで「女性同士の連帯」を示した。昨年のアカデミー賞では『グリーンブック』の受賞に対してスパイク・リーが明らかな抗議の意を示して他の関係者もそれに続いたが、それも『グリーンブック』に設定的に「コード違反」な作品であると認定されてしまう落ち度があったからできたことだ。

「コード」に振り回されるハリウッドの現状にうんざりする声は、国内の映画ファンたちの間からもあちこちから聞こえるところだ。『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』『キャプテン・マーベル』に対して生じたバッシングを見るに、うんざり感は海外の映画ファンたちの間でも共有されているのだろう。その気持ちはわからなくもない。

 

 しかし、安直に「コード」を否定することもできない。「ダイバーシティ」にせよ「フェミニズム」にせよ、突き詰めればそれは現代の民主主義社会では当然に共有されるべき人権思想につながっているのだし、私たちの大半が当たり前に持っている「どんな人でも尊重されるべきだし、平等な配慮や公平な扱いが必要だ」という基礎的な道徳規範に由来しているのである。まともな人であれば、人種差別や女性差別LGBT差別を容認することはできない。そして、社会に存在する差別構造や差別意識というものはついつい作品に反映されてしまうものでもある。映画などのフィクションの制作において「コード」がそれらの差別意識を抑制したり解毒したりする役目を持っていることはたしかだし、実際にその効果を発揮している側面も大きいのだ。

 昔の映画を見ていると、作品自体は素晴らしくても、当時に「コード」が成立していなかったために明らかな瑕疵が残っていることに気付かされることがよくある。たとえば、先日に私は『グリーンマイル』を再視聴したのだが、作品の内容は感動的であるのに「マジカル・ニグロ」的な描写があまりに典型的過ぎて入り込めないことがあった。他の作品でも、主要登場人物による女性や外国人への態度がひど過ぎて感情移入できなくなってしまうこともあれば、女性やマイノリティの人物描写がステレオタイプに過ぎて作品自体に対して白けてしまうこともある。

 現代の社会においては人権意識や道徳規範というものは常に進歩して拡大しているいものだし、そのスピードは日増しに速くなっている。それに慣れてしまうと、昔の作品にはどこかしらキツい気持ちを抱いてしまうものである。ましてや現代の作品において「コード」が守られていなければ、それだけでマイナスになりかねない。

 とはいえ、現代の人権意識や道徳規範を全く守れていない昔の作品であっても、現代の作品以上に面白かったり感動させられるということも多々ある。「コード」がシンプルな時代であればあるほど、直球にストーリーやテーマやキャラクターを描写できるという側面があるのだ。また、現代では「コード」が肥大して複雑になり過ぎているために、多くの作品ではどこかのところで"あえて"コード違反をすることで物語にひねりを加えたりキャラクター描写を味わい深くしていることはたしかだ。

 物語の面白さやキャラクターの魅力には価値観というものが否応なく関わるが、それは単に「価値観が一致していれば面白い」というものではない。観客の価値観と一致させるべきところでは一致させつつ、ここぞというところで観客の価値観を揺さぶったりあえて観客の価値観に相反する描写をすることなどで、むしろ物語の面白さやキャラクターの魅力が増したりするものなのである。ただし、それを実現するためには「現在の世間の人々は何を是として何を否としているか」「一般的に正しいとされていることはどういうことであって、間違っているとされていることはどういうことであるか」ということを正確に把握しておくことが重要だ。あえてのコード違反をするためには、まずは「コード」を理解しておかなければならないのである。「コード」の存在を理解できていなかったり「コード」について履き違えていたりすれば、狙い通りの効果を生み出す作品も作れないだろう。そういう製作者は単に能力の足りない人とみなされるだろうし、作品の出来も悪くなるものであろう。

 

 前置きが長くなったが、Netflixである。そもそもの話として、私はNetflixに対してあまりいい思いを抱いていない。数年にわたってNetflixを経由して大量に映画を見ているし、素晴らしいオリジナル映画作品にも楽しませてもらっているが、それでもNetflixそのものに対してはかなりムカつく気持ちがある。まず、営利企業だから仕方がないとはいえ、あまりにも商業的だ。視聴者たちが期待して次のシーズンを待っているシリーズ作品であっても思ったより売り上げに貢献しないとわかったらすぐに作品を打ち切る。シリコンバレー的なベンチャー企業にありがちなカルト宗教的でブラック企業的な会社体質も気に食わない。

 そして、Netflixオリジナルの作品……特に、シリーズもののドラマ作品やリアリティ・ショー的作品……はどれもこれもハリウッド以上に現代の「コード」にぴったりと乗っかっている。『クィア・アイ』では毎回のゲスト及び視聴者たちが自己肯定感を培えるようなポジティブで優しいメッセージが発信されまくるし、ティーンエイジャーを主役にしたドラマも大量に製作して若者たちの心もバッチリ掴む。

 わたしがNetflixのオリジナル作品群を眺めていて思うのは、かつてバーバラ・エレンライクが現代アメリカ社会におけるカルト的価値観として喝破した「ポジティブ病」が蔓延していることだ。良く言えばどんな人でも肯定して前向きにさせて、悪く言えばどんな人でも甘やかして慰撫するようなテーマとメッセージが蔓延しているのである。

 そして、Netflixにおいてはハリウッド以上に「コード」が商売のタネとなっている。「最近に流行している価値観ってこういうものだからこういう作品を作っておけば視聴者が"先進的"だって思ってくれてはしゃいで勝手に宣伝してくれるだろ」という意識で作られていて、実際に視聴者たちがはしゃいで宣伝しているのだ。だが、「コード」とは本来は人権思想や道徳規範に基づいているものであり、襟を正して扱うべきものなのだ。「コード」を意識して作品を作ることは現代においてより良い作品を作るためには不可欠であるが、作品を宣伝しやすくして視聴者をキャッチしやすくする釣り餌として「コード」を使うことは本末転倒だ。

 そして、そんなNetflixの思惑にまんまと乗せられてNetflixの宣伝をして、「コード」を守れていない他メディアの作品を糾弾する人たちについては、馬鹿じゃないかと思う。すくなくともプライドとか矜持とかが無さそうにみえるし、映画や物語というものに対する真摯な姿勢も感じられない。

 

 日本におけるNetflixの特殊なところは、USの本社が提供している価値観に全く沿っていない、「コード」を完全に無視した作品が多く作成されて、それが大ヒットして話題になることだ。言うまでもなく『全裸監督』がそうであるし、最近では『FOLLOWERS』も同様の扱いとなっている。

 これがNetflix(US/JP)の意図的なマーケティングの結果であるかどうかは定かではない。おそらく、違うと思う。単に、日本におけるコンテンツ産業やメディア産業における大半の人がそうであるように、現代の(欧米における)「コード」というものを製作者側が全く理解していないし気にもしていないから、必然的に「コード」を無視した作品が作られてしまう、ということのように思える。*1"あえて"の「コード」破りではなく、無知の結果の産物なのだ。

 この事象についてどのような態度を取ればいいのかは、なかなか難しい。作品の純粋なクオリティを客観的に測定することが可能であるとすれば、ただ無知の結果として「コード」を破っている作品よりも「コード」を守った作品や「コード」を意図的に破った作品の方が上にくるだろう(作品に対して製作者が働かせている意図のレベルやクオリティが変わってくるからだ)。

 しかし、ここで言っている「コード」は所詮は欧米に限定されたものに過ぎない。「コード」は、元々は人権や道徳などの普遍的なものに根付いているとはいえ、時の潮流によってコロコロと左右されるものでもある。最近では人種ダイバーシティよりも女性の扱いやLGBTの扱いの方が重視されていることも、#MeTooなどに触発された欧米の時事的な事象に過ぎない面があるだろう。そんなものを普遍的であるかのように強弁して、「欧米のコードを守れていない日本作品は遅れていてダサくてダメだ」と言いたくない気持ちも強い。いかにも文化侵略の尖兵という感じがあるし、虎の威を借る狐みたいで人間としてダサい振る舞いであるという気持ちもある。

 かと言って『全裸監督』や『FOLLOWERS』に対して愛着や思い入れがあるかというと、全くない。「まあたまにはこんな作品がある方が世界が広くなっていいかな」というくらいの意見しか抱けないのだ。

 それに、結局はNetflixが商業としてやっていることなのだ、という虚しい思いがある。アメリカやイギリスにおいて「コード」に乗っかった「先進的」な作品が作られようと、日本において「コード」を外した「ダサい」作品が作られようと、どっちだってそれなりに売れてしまうのである。そういうものだ。だから、初めからNetflixなんかに何も期待をするべきではないのだ。けっきょく、商業的に乱造されたNeflix(US)オリジナルシリーズ作品をなにか崇めるべき価値観を提示してくれる経典のように扱うファンたちがいちばん間違っているのだ。

*1:ひどい言い方になるが、「コード」をきちんと理解した上で破るべきところで効果的に破る、という知的で洗練された芸当ができる人は日本の映像関係者にはごくわずかしかいないはずだ、という偏見が私にはあるのだ。