『レベッカ』&『ベケット』&『シカゴ7裁判』
●『レベッカ』
ヒッチコック作品のリメイク。昨年に予告を観た時から期待していたし、前半はリリー・ジェームスとアーミー・ハマーの演じるラブロマンスが実に美しくてワクワクしたが、サスペンスがメインとなる後半になってからは尻すぼみもいいところ。途中で集中力が切れてしまったのでスマホをぽちぽちしながら観ることになり、ダンヴァース夫人とレベッカの関係性とかレベッカがどういう人物であるかもいま解説サイトで改めて確認しているくらいである(ひどい批評家だ)。
案の定、TwitterでもFilmarksでも海外サイトでも、評価はまったく芳しくない。
とはいえ、わたしはこの映画は嫌いではない。先ほども書いたようにラブロマンス描写が素晴らしく、そして終盤にリリー・ジェームスが夫を守るために奔走して、ダンヴァース夫人とレベッカという悪女どもも打ち負かすことで「愛が勝つ」というロマンスからのモラルがきちんと描けているところは好ましい。不倫する女がきちんと悪人として描かれていて、貞操を守る女がそれゆえのタフさや意志の強さを持つ存在として描かれているのは近年ではなかなか見受けられないが、だからこそ古典作品をリメイクする価値があるというものだ。諸々のレビューを見るとリリー・ジェームスが演じるド・ウィンター夫人は原作に比べて活発で行動的であり、そこだけ現代的なせいで浮いているらしいが、王道的なヒロイックさを追加して愛の力を強めるという点で私はよい描き方だと思う(まあサスペンス性とか芸術性とかの観点からは明らかに失敗であるとも思えるけれど)。最初はごっついアーミー・ハマーにあれこれ連れ回されたり抱き抱えられている存在であったリリー・ジェームスの立場がいつの間にか逆転して、しょぼくれて自信喪失して怯えるハマーをリリーが救い出すという構図も、なんというか愛らしい。ド・ウィンター夫人の「成長」を狙い通りに描けていることは間違いないだろう。
リリー・ジェームスが旅行先やお屋敷で戦前風のいろんな服装を着るところは実にチャーミングで素敵だし、アーミー・ハマーの二の腕や胸板や胸毛だってとても魅力的。結局のところ、美男美女の魅力をきちんと引き出すだけでも、そうでない映画に較べるとなにかしらの価値があるということだ。
●『ベケット』
こちらは特定の作品のリメイクというわけではないが、明らかに、1970年代の映画の雰囲気を再現することを狙いとした作品。
どっかの批評家がTwitterでオマージュ元の監督について明言していたけれど、忘れちゃったし探しても見つからない(ヨーロッパ系だったはず)。わたしとしては、20歳前後の時に観た『カプリコン・1』とか『マラソンマン』を思い出した(あとヒッチコック)。要するに、理不尽な理由でひたすら悪の組織に追われ続ける系のサスペンスである。
この映画は後半まで主人公がなぜ追われているのかわからず、ギリシャという舞台もあって、不条理感がものすごい。そのためにずっと不条理なまま進んでいく理不尽ホラーだと思わされてしまい、途中で主人公のジョン・デビット・ワシントンを助けてくれる女子大生たちもぜったい敵だと決めてかかっていたし、なんなら主人公は虚しく死んでしまうのではないかとも覚悟していたのが、後半にて主人公が追われる理由や敵の正体が判明するし、主人公は英雄的な行動を取りつつなんとか事態を解決する。最後まで観てみるとかなりシンプルな物語であったことがわかるが、だからこそ、恋人を死なせたことを自責する主人公の最後のセリフが心に響くものとなるのだ。
とはいえ『マラソンマン』が大した作品ではなかったように、この作品も単体では決して素晴らしい作品ではない。ギリシャというロケ地の魅力、上映時間を贅沢に使ったもったりしながらも肉感的で生々しいアクションシーン、オバマ大統領期という設定を忘れさせる不思議な時代感覚、そして『TENNET』に引き続き「なんか理不尽な事態に巻き込まれてあたふたしながら頑張る」羽目になるんだけれどそういった役柄が異様に似合ってしまうジョン・デビッド・ワシントンの役者パワーのおかげで、観て損はしない程度の作品には仕上がっている。女子大生たちや現地人たちの「実際にいそう」感もなかなかのものだ。
●『シカゴ7裁判』
上記二作との関連性はないんだけれど、正月に観た『シカゴ7裁判』の感想もいまのうちに書いておく。
ジョゼフ・ゴードン=レヴィットやマイケル・キートンというわたしの好きな役者に加えて(わたしはあまり好きではないけれど)エディ・レッドメインやサシャ・バロン=コーエンもいる豪華な俳優陣、そしてわたしの好きな「法廷もの」というジャンルであることからかなり期待していたのだが、これがぜんぜん面白くなかった。というより、異様に気に食わなかった。
なぜ気に食わないかというと、カウンターカルチャーに共感できないから。当人たちの真剣さはわかるし、時代的な意義もわかるし、抗議の対象であるアメリカ政府の横暴さとかもわかるんだけれど、そんないろいろな理解を乗り越えて、「うっせえからこんな奴らブタ箱に入れちまえよ」という感覚が先立ってしまったのだ。この感覚がロクでもなく正当化できないものであることは認めるだが、でもそう感じてしまったんだから、(現実社会に関する政治的意見としてはともかく映画の感想としては)仕方がない。
個人的な感覚は置いておいても、クライマックスの描き方などはあまりに自己陶酔的であるし、リベラル・デモクラティック価値観の勝ち誇りやエコーチャンバーがうかがえて、ロクなものでないのだろうか。
運動家の間でもエディ・レッドメインのような「頭脳型」もいればバロン=コーエンのような「過激型」もいて、彼らが口論しあうシーンなどはまだしも面白い。また、当初の予定通りにスティーブン・スピルバーグが監督していたら、キャラクターに対する感情移入のさせ方もクライマックスの描き方ももっと洗練されていてかつ感動的なものになっていたのではないか、と思う。なんとなく、スピルバーグならカウンターカルチャーの信奉者でない観客のことも想定したうえで、そんな観客でも運動家たちに共感が抱けるような工夫をしてくれていたように思えるのだ。
そういえばわたしの友人が「ゴードン=レヴィットとかエディ・レッドメインとかのいかにも若い女が好きそうな俳優を集めて、それで実在の事件を背景にした教育的な内容の映画を作るって、"布教"の戦略としては実に優れているね」みたいなことを言っていた。なかなか鋭い指摘だ。