THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『チェンジリング』

 

チェンジリング (字幕版)

チェンジリング (字幕版)

  • 発売日: 2015/11/05
  • メディア: Prime Video
 

 

1928年のロサンゼルス、シングルマザーであるクリスティン・コリンズ(アンジェリーナ・ジョリー)が電話会社での勤務を終えて帰宅すると、家に残してきたひとり息子もウォルターが行方不明になっていった。まじめな少年であるウォルターが遊びまわっているとか家出したとも考えられず、クリスティンは必死になって警察に捜査を依頼するが、警察は「よくあることだ」と言ってロクに捜査しない。

 そのうちにウォルターがいなくなってから5ヶ月が経ち、事件は世間の注目を浴びるようになったが、腐敗しており無能であるロス市警はいまだにウォルターの足取りをつかめないままだった。だが、ある日、ウォルターが見つかったとの連絡がクリスティンに行く。そしてクリスティンはウォルターを迎えに駅に着くが、そこで彼女が目にしたのは、自分はウォルターでありクリスティンのことを母親だと言い張る全く別人の少年だったのだ。

 クリスティンはこの少年はウォルターではないと必死に訴えるが、メディアでの印象や世間の評価ばかりを気にするジョーンズ警部(ジェフリー・ドノヴァン)やデーヴィス市警本部長(コルム・フィオール)は全く耳を貸さない。謎の少年も図々しくコリンズ家に居座る。クリスティンは疲弊しながらも警察への抗議を続け、ロス市警の腐敗を長らく批判し続けていたブリーグレブ牧師 (ジョン・マルコヴィッチ)もクリスティンの味方をするが、ジョーンズ警部はクリスティンを精神異常だと断定して精神病院に放り込んでしまった。その病院には、クリスティンと友人になったキャロル(エイミー・ライアン)をはじめとして、クリスティンの他にも警察に不都合な存在であるために閉じ込められた女性が大量にいたのである。

 一方、とある養鶏場に潜伏していたカナダからの不法移民の少年を捕まえたレスター・ヤバラ刑事 (マイケル・ケリー)は、その少年の従兄であるゴードン・ノースコット (ジェイソン・バトラー・ハーナー)が20人以上の児童を養鶏場で殺害したということを聞かされる。さらに、その犠牲者のなかにウォルター・コリンズも含まれていると少年は証言したのだ。はじめは半信半疑だったヤバラ刑事だが、少年の鬼気迫る告白に心を動かされ、「捜査を中止しろ」というジョーンズの命令を無視して養鶏場を捜索する。そして、犠牲になった少年たちの遺骨が次々と発見されたのだ。

 ブリーグレブ牧師の活躍もあって精神病院から脱出できたクリスティンは、ノースコットの事件の件を聞いて心を痛めつつも、優秀な弁護士サミー・ハーン (ジェフ・ピアソン)を雇ってロス市警を訴えてジョーンズやデーヴィスの捜査ミスの責任を追及して、精神病院の女囚を解放することにも成功した。世間もみんなクリスティンの味方をしてロス市警の問題は片付き、ウォルターを偽る謎の少年の身元も判明して元の家に戻すことができたが、肝心のウォルター本人の行方はいまだ不明のままだった。周囲の人は「ウォルターもノースコットに殺されたんだろう」と思っているが、クリスティンだけはウォルターの生存を信じ続ける。そして、ノースコットはクリスティンの頃が気に入り、「ウォルターは生きている」「いやウォルターは殺した」と何度も証言を翻すことでクリスティンの心を翻弄し続けるのだが…。

 

 公開当時の2009年に劇場に観にいって以来の再視聴。「行方不明になった息子を偽るまったくの別人の少年があらわれた」ということを強調する予告編がいかにもつまらなさそうだったし(なんだか二流三流のサイコサスペンス映画に思えたのだ)、アンジェリーナ・ジョリーにも『トゥームレイダー』のイメージが強すぎて「ちゃんとした演技ができるんかいな」と感じてしまって、期待せずに見にいった思い出がある。そして、いざ鑑賞してみるとその異様なストーリーとアンジェリーナ・ジョリーの鬼気迫る演技に度肝を抜かれてしまい、かなり印象に残る映画体験となったのであった。

 

 題材となった史実を忠実に反映した結果、とにかく不条理な物語になっていることがこの映画の特徴だ。偽ウォルター少年のくだりや、いくら警察に訴えても無視されて精神病院に放り込まれてしまうところには、カフカ的な理不尽さがある。ウォルターの生死は最後まで確定せず、クリスティンは死ぬまで息子の生存を信じ続けた、という点もまるで寓話みたいだ。

 この映画の終盤ではノースコットに拉致された少年のうち一人の生存が発覚して、それを知ったクリスティンによる「まだ息子が生きているという希望がありますわ」という台詞を言うところがこの映画のラストシーンとなっている。最初にこの作品を見たときにはこの"希望"はクリスティンに対する"呪い"のようなものに感じられたのだが(客観的にはどう考えても死んでいる息子を生きていると思い続けるわけなのだから)、改めて観ると、たしかにクリスティンの人生に生き甲斐や救いを与え続ける"希望"なのだなと認識を改めた。いずれにせよ、短編小説のように綺麗で文学的なオチの付いた、素晴らしいラストシーンとなっている。

 

 ウォルター少年の生死の行方とそれを探し求め続けるクリスティンの執念や信念がこの映画のキーとなっているのだが、そこに「偽ウォルター少年」「ロス市警」そして殺人鬼の「ゴードン・ノースコット」という三種類の「悪」が立ちはだかる。彼らはそれぞれに特有の邪悪さを備えているが、三者の間に関連性や共犯関係はほとんどなく、まったくの偶然から三者同時にクリスティンを襲う、というところがこの映画のストーリーをかなり歪で奇妙なものにしており、それにより凡百の作品にはない独特な雰囲気が生まれているのだ。

 主要なテーマはウォルター少年の生死であるのだが、事件の進行に応じて、クリスティンの当面の敵が偽ウォルターからロス市警やその息がかかった精神病院からノースコットへとコロコロと変わっていく。そして、最終的に偽ウォルター少年の嘘がバレてロス市警の腐敗が暴かれてノースコットが死刑になって、それぞれの場面ではたしかにカタルシスがあるのだが、肝心のウォルター少年の生死の問題にはなんのケリもつかない。このプロットはかなり特殊なものであり、そして歪ながらもやたらと上手く機能してい面白い作品になっているところがすごい。

 

(牧師やキリスト教団体の助けありきとはいえ)ロス市警の腐敗が民衆の力で暴かれるところは民主主義的だし、精神病院の場面では女囚同士の「シスターフッド」的な描写や「女はすぐに精神病扱いされる」と女性差別を指摘する場面もあるなど、ところどころにリベラルっぽさが感じられるとはいえ、全体的には保守的なメッセージが強い作品ではあると思う。

 クリスティンは魅力的ではあるがかなり理想化された主人公となっていて、「母親」に対する保守的な幻想が投影されていることは間違いないだろう。だが、「善」を担う存在である女性が嘘つきの子供や腐った警察や猟奇殺人鬼などの「悪」と立ち向かって打倒していく、という展開には古典的な面白さがしっかり存在する。ヤバラ刑事やブリーグレブ牧師などの脇役の活躍も印象的だ。

 そこに「希望」をめぐる寓話が加わることで捻りが効いて、独特な構造の作品になっているのだろう。普通の映画監督ならこの構造のストーリーを作ることがそもそも許されないし、作っても大概は失敗すると思う。なんだかんだで保守的な作品を作り続けているクリント・イーストウッドの経験と信念がなければとても作れなかったような作品であることは間違いない。