THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』

 

Once Upon a Time in America (字幕版)

Once Upon a Time in America (字幕版)

  • メディア: Prime Video
 

 

『夕陽のガンマン』などの「ドル箱3部作」も『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』も『夕陽のギャングたち』も大好きなわたしですが、この『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』だけは昔から好きになれない。3時間50分はいくらなんでも長過ぎるし、話の内容はやろうと思え2時間でも済みそうなものだ。「カンヌでオリジナルバージョンが大絶賛されたがアメリカ公開時には短く編集されたものが上映されてしまったせいで酷評されることになった」といういわく付きの作品ではあるが、短くしたくなる配給側の気持ちも充分にわかる。

 同じセルジオ・レオーネ監督の西部劇ものに比べると、役者の貫禄のなさが最大の欠点であるように思える。主人公であるヌードルスを演じるロバート・デ・ニーロは素晴らしいとはいえ、他の連中はいかにも二流な脇役然とした人たちばっかりなのだ(特に、主人公の次に重要な人物であるマックスを演じるジェームズ・ウッズの魅力のなさがきつい)。舞台が現代に近付いたせいか、西部劇のときにうじゃうじゃいたような「顔の濃いおっさんたち」が消え去り、つるんとしていて味気もなければしまりもない、普通の映画の登場人物たちのような顔をした人ばかりになっているところ大きなマイナスだ。

 前回にも指摘した通り、レオーネ監督の作品「大したことのない物語に勿体ぶった演出で迫力と貫禄を与える」ことが十八番であり醍醐味なのだが、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』ではそれができなくなっている。勿体ぶった演出に耐えられるだけの役者はデ・ニーロひとりだし、現代に近い舞台では西部劇のときのような芝居がかった振る舞いを描くこと自体が難しくなるからだ。そのデ・ニーロも出てこない少年時代のシーンが一時間近く続く序盤は、特に観るに耐えない。(ニューヨークの風景の描写だけは印象深いのだが。)……そして、「勿体ぶった演出」が成立しなければ、あとはただただダラダラとするしかない。省略を駆使した洗練された脚本、というものとは正反対の作品しか作ってこなかった監督であるからだ。

 また、西部劇の時には許されていた(?)女性差別意識アリアリのジェンダー描写も、この作品ではちょっとキツ過ぎる。同年代の少年相手にも気軽に淫部を見せたり売春したりするペギー関連の描写とか、銀行強盗した際に犯された女がギャングたちと再会してチンコ当てをするシーンとか、とにかく昭和的な下品さがあって不愉快だ。  

 この作品と『ゴッドファーザー』を隔ているものは、品性と洗練の有無であるだろう。『ゴッドファーザー』はマフィアものでありながらも「性」の要素の脱臭に成功していたのだなと気付かされる。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン』には無駄なシーンが二時間ぶんくらいあるが、『ゴッドファーザー』には無駄なシーンが何一つなかったのだ。

 

 ラストシーンにおけるデ・ニーロの笑顔はそりゃ印象的だし、複雑な時間軸を描く構成自体は悪くないのだが、それに3時間50分かける必要はあるか、という話だ。巨匠になり過ぎたレオーネに突っ込みを入れたり抑制を効かさせたりできる周りの人がいなくなって、観客への配慮に欠けた失敗作になっていると思う。

 この映画を生涯ベスト映画にあげる人は多いらしいのだが(『一日外出録ハンチョウ』でもそういうエピソードがあった』)、首を傾げざるを得ない。「3時間50分かけて劇場でこの作品を見た」という苦痛体験を正当化する心理がはたらいて認知が歪んでいるだけだと思う。