『ダンケルク』
この作品は、2017年の公開当時にも劇場で観に行った。当時はiMAXが京都の劇場に普及しはじめた頃であり、「映像がすごいからiMAXで観た方がいい」みたいな評判を聞いてiMAXで見ようと思ったのだが、追加料金がかかることを知らなくてびっくりして、「どうせ追加料金がかかるならもう数百円払ってiMAX4Dにしてしまうか」と思ってそちらを選択した。しかし、ずっと緊張感を連続させるべきシリアスな展開がウリの『ダンケルク』に、水がぴちゃぴちゃかかったり席がゴウンゴウン動いたりなんか煙が出たりする4Dでは集中力が阻害されること甚だしく、最悪な選択であって後悔したものだ。あれ以来、4Dで映画を見たことは一度もないし、あんなもんで映画館の座席が無駄に埋められて普通の上映回が圧迫されるのは勿体ないからいますぐ全国の映画館から4Dを撤去するべきだと思う。
そして、何度も観た『ダークナイト』をiMAXで観てみると存外に良かったので、同じくクリストファー・ノーラン監督の作品である『ダンケルク』を改めて(今度は4Dではなく通常の)iMAXで鑑賞してみた次第である。
改めて鑑賞してみて驚かされたのは、4Dではない普通のiMAXですら、空を飛ぶ戦闘機から落とされた爆弾の爆発音の音響が凄すぎて、まるでアトラクションのような臨場感があったことだ。これは他のiMAXでは感じた覚えがあまりない感覚であった。『ダンケルク』がすごいのか、それともTOHO新宿歌舞伎町店のおっきいiMAX設備がとりわけすごかったのか、どっちであるかはわからないけれど……。
一週間を描く”陸”・一日間を描く"海"・一時間を描く"空"、と異なる時間スパンの三つの画面を描いて最後にそれぞれの場面が合流する…というコンセプトは、初見のときにはうまく理解しきれなかった。冒頭で出てくる「一週間」とか「一時間」の表記の意味がわからず、途中から「あ、そういうことか」と把握したためである。
そのため、時間軸についてしっかり認識した状態で観てみるとだいぶ理解がスムーズにすすみ、「ここの場面はあそこにつながるんだな」「あそこでの展開がここに関わってくるんだな」みたいなことについて混乱せずに伏線なども楽しみながら見ることができた。それだけでも、鑑賞の質がだいぶ変わるものだ。比較的シンプルな『ダークナイト』ですら何度も観てようやく理解できた展開や意図があったりするものだから、ノーラン監督の映画ってむずかしい。
時間軸について理解していると、"空"の場面の主役であるトム・ハーディのヒーローとしての役割が堪能できる。陸の登場人物も海の登場人物も絶体絶命のときに彼があらわれる、という展開こそがこの映画の構成が最も活かされているところだろう。
再視聴してもキリアン・マーフィーがどこからあらわれたかわからなくて戸惑ったが(トム・ハーディーと同じ隊のパイロットかな、と一瞬思うが時間軸的にありえないことはわかるし)、けっきょく役名自体が「謎の英国兵」ということでそういうキャラらしい。また、最後にトミー(フィン・ホワイトヘッド)に毛布を渡すおじさんが盲目であることも、あまりにさりげなく描かれているために初見のときには気付かなかった(別の兵士が「あいつ、顔も見ずに毛布を渡しやがった」と言うのに対してトミーが否定しないところもややこしい)。
盲目のおじさんや、フランス兵の救助のために堤防に残る軍隊の偉いおじさん(ケネス・ブラナー)、"海"編の主役である自分の船で兵士たちを助けに行く民間人のおじさん(マーク・ライランス)、あるいは身分を偽っていたフランス兵(アナイリン・バーナード)をトミーが庇うシーンなど、本来なら英雄的な出来事とは言えないはずの「撤退戦」において様々な人間がおこなった英雄的な行為が描かれている作品である。時間軸をいじくった構成に気を取られがちが、むしろ、この「英雄的な行為とはなにか」というテーマの方が重要であるのだろう。英雄となるつもりで船に乗ったら戦争に赴く前から不慮の事故で死んでしまうジョージ(バリー・コーガン)の存在はかなり印象に残るし、ダンケルクに到達する前に撃墜されてしまったコリンズ(ジャック・ロウデン)もジョージと同じく「英雄になり損ねた」人物である。しかし、むしろ彼らこそが、この映画のテーマを体現する存在であるかもしれない。
戦争が舞台となっているだけに大量の兵士があっけなく死んでいくが、その死の悲惨さは強調されない。敵兵の姿がほとんど描かれないところも特徴的だ(ただ、敵が運転する戦闘機は、特におどろおどろしい演出がされているわけでもないのに死神のような存在感を放っている)。『1917』を観たときには「『ダンケルク』っぽい映画だなあ」と思ったものだが、あちらは「死体」と「敵兵」がかなり露骨に強調されていて、なおかつワンカット風の構成によるまっすぐな時間軸こそが最大の特徴であったのだから、演出の仕方は『ダンケルク』とはむしろ真逆であったかもしれない。敵兵の姿をほとんど見せないのに恐怖やサスペンスの演出は一級品な『ダンケルク』の方が変態的な離れ業に過ぎて、凡百の製作陣にはちょっと真似できないものであるのだろうけれど。
「何もせずに逃げ帰っただけだ」と悔やんで、故国の人たちに罵倒されることを恐れていたトミーたちが大歓待されるシーンには、ウルっとさせられるものがある。燃え尽きていくスピットファイアを眺めながらトム・ハーディが敵兵に拘束されるシーンもいいし、マーク・ライランスをはじめとしたおじさんたちが渋い顔で「やりとげた」感を出しているところもいいものだ。三つの時間軸がクライマックスで合流するだけでなく、クライマックス以降にまた三つの時間軸がそれぞれに分散していくところも、この映画のラストの感動を際立たせるキモとなっている。
クリストファー・ノーランの素晴らしいところは、単に技巧が脚本術が超絶に巧みなだけでなく、その技術によって描かれる物語がいつも道徳的なテーマを真剣に取り扱ったものであり、人を感動させられるものであるところだ。ただ単に技巧がすごいだけの監督なら他にもいるだろうが、それと同時に物語やテーマの描き方もここまで優れている人は唯一無二であるだろう。
……とはいえ、いつものノーラン作品以上にギチギチでミチミチな構成や、緊張感がずっと連続するところ(”海”の場面はクライマックスに至るまでは穏やかな場面も多くてクッションとなっていたが)、そして夏バテや同日の朝から『透明人間』とぶっ続けて連続して鑑賞したことも災いして、今回も途中で集中力が切れるタイミングができてしまった。また5年後とかに、もっと万全を期した状態で、改めて観てみたいものである。