THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『最後の決闘裁判』:価値観を"揺さぶる"のではなく、価値観を"確認する"作品

 

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 まず書いておくと、この映画を観たのは公開の翌週の日曜日だ。そして、たった一週間とはいえ、(完成度の高い名作であり、人が言及したがる内容のために)Twitterで様々な感想が目に入ってしまい、明確なネタバレはなかったけれど「どういう作品であるか」ということの見当が付いている状態で観に行ってしまった。そのため、第一章の時点から、先の展開に予測が付いてしまう。2021年に、『羅生門』(藪の中)的な構造にしておきながら、フェミニズム的なテーマがメインであり、劇中で性暴力が起こる作品で……となると、そりゃこういう風に作るしかないでしょう。

 だから、前情報がなかったとしても、わたしくらいに映画の鑑賞経験と昨今のトレンド・風潮に対する知識が豊富な人間であれば、第一章の終盤かおそくとも第二章の後半にはどういうテーマの作品であってどういう展開やクライマックスになるか察しが付けられたようにも思える。「騎士道物語かと思いきや#MeTooの物語でした」という驚きやトリックが作品のキモであるのだが、やっぱり勘の良い観客ならわかってしまうんじゃないかなあ。

 

 ジャン・ド・カルージュ(マット・デイモン)、ジャック・ル・グリ(アダム・ドライバー)、マルグリット(ジョディ・カマー)、それぞれの視点から描かれる「真実」や、同じ場面でも語り手によって描かれ方はまったく違うという仕掛けはおもしろい。  

 自分が誉れ高い騎士だと思っているカルージュがル・グリの視点では厄介で世話が焼ける思い込みの激しい頑固者、というところは笑える。

 また、いちどル・グリの視点で強姦シーンを描いておきながら、マルグリットの視点では同じ場面で悲鳴や泣き叫ぶ姿が描かれることで、「性暴力」の恐ろしさを強調したり性加害者の「認知の歪み」を示す、という構造は優れている。……とはいえ、これも、ル・グリの視点による強姦シーンの時点で「マルグリットの視点だとぜんぜん違って描かれるんだろうな~」と予想がついてしまうんだけれど。

 作品の中核にあるフェミニズム的なテーマに関する描写ほど予想が付きやすい、というのはこの作品の根本的な問題であると思う。後半になるにつれて、フェミニズム批評で百点満点が与えられる描写や仕掛けをそのままやっているだけという感じが強まり、「お手本」みたいになっていくのだ。

 そのため、フェミニズムや性に関してアップデートされた知識を持つ観客ほど、『最後の決闘裁判』を観て自分の価値観が揺さぶられたり、新しい価値観や「他者」に触れたりするということはなくなってしまう。百点満点のお手本であるこの作品でおこなわれているのは、中世フランスを舞台としておきながらも、21世紀(の主にアメリカ)の価値観の「再確認」だ。そのため、脚本のクオリティが高く、俳優も美術も豪華で金がかかっており、そして「性暴力」や「女性のモノ化」というテーマ自体は見事に表現できている作品でありながらも、わたしは劇場で観ていてちょっとシラケてしまった。どこが優れていたり各シーンにどういう描写があるかは頭ではわかるし、それを考察するのはおもしろいんだけれど、心ではなく頭にしか響かない作品になってしまっていたのだ。

 

中世フランスに現代の#MeTooを再現したこの作品では、『羅生門』(藪の中)でありながらもマルグリットの真実だけはテロップが表示される際にaccording toが抜けて「真実」が残り、カルージュやル・グリのそれとは違う「ほんものの真実」として特権的な地位が与えられる。……でも、意図は充分に理解できるけれど、これは明確にやっちゃいけないことだとわたしは思う。

 まず、フィクションの作り手には、テロップに仕掛けを施すという小細工じゃなくて本編の描写によって真実の「ほんものらしさ」を表現してやるぜ、という意気込みや矜持を持ってほしいものだ。しかも、『最後の決闘裁判』では、マルグリットの視点による第三章にはちゃんと「ほんものらしさ」が表現できているのだ。ル・グリの視点とマルグリットの視点それぞれによる強姦シーンを観たうえで、「どちらの真実がよりほんものであるかは藪の中だからわからないぜ」と言うやつは、よっぽどのアホであるかミソジニストであるかその両方であるだろう。だから小細工なんて必要なかったのだ。

 その一方で、現実の社会における#MeToo運動では、「告発」を無条件に「真実」とすることに伴う弊害や手続き面での正当性を無視したキャンセル・カルチャーの問題なども指摘されているところだ。そして、終盤におけるマルグリットの立場や周囲の人々による彼女に対する言動は、明らかに現代の#MeTooを連想させるような描写となっている。だからこそ、前時代的で歪なものでありながらも、いちおうは「裁判」を描いているこの作品で、テロップによってひとつの立場からの真実に特権性を与えて、ほかの立場からの真実については考慮しなくてもいいと暗示するというのは、かなり危うい。どれだけクソに思える人間であってもそいつの言い分は聞かなくてはいけないというのが現代の現実における手続き的正義であるし、そもそも女性が「モノ」であるために彼女たちの言い分が考慮されなかった時代の不当さに対するアンチテーゼであったとしても、本編における描写ではなくテロップでそれを表現するというのは行き過ぎだ。

 

……上述したような理由から、わたしはこの作品を「名作」とは評価しない。五点満点なら四点の評価だ。とはいえ、個々のシーンの描写や細かいポイントはさすがに上手であったり、おもしろかったりする。

 

 カルージュにせよル・グリにせよ、それなりに複雑であり、とくにル・グリは多面性を持つキャラクターである。話の構造とテーマ的に終盤は「同情の余地ナシ!」という風に評価を誘導されるし、クライマックスの「決闘」が騎士道やロマンスとは無縁の残酷で野蛮な殺し合いショーとして描かれることも予想の範囲内だけれど、それはそれとして、殺されて裸にされて吊るされるル・グリの姿は哀れである。

 また、ついついカルージュやル・グリがセクシストであったり「有害な男らしさ」を体現したりしていることが問題だという風に思ってしまいがちだが、個人ではなく社会のほうが歪んでいるためにロクでもない事態を引き起こしている、という点はきっちりと描写されている。悪気はないながらも友人であるル・グリを後戻りできない危険な状況に追い込んで死なせることになる、というピエール(ベン・アフレック)のキャラクターはおもしろい。また、「誇り」と「名誉」をなによりも重視してそのためには友情も財産も妻からの信頼や関係性を犠牲にすることを全く厭わないカルージュの行動は、「有害な男らしさ」ではなくむしろリチャード・ニスベットによる「名誉の文化」の議論を思い出した*1

 カルージュとル・グリによる視点の各章の冒頭では名もなく罪もない農民(?)たちが首を刎ねられて殺されていること、カルージュとル・グリが「死地」で戦う戦士であることも忘れてはいけないだろう。家父長制は、女性から地位や権利や尊厳を奪って「モノ」扱いするだけでなく、「消耗品」である男性たちを危険にさらして使い捨てにする制度でもあるのだ*2

 

 ル・グリの視点ではマルグリットが「色目」を使っていると思えなくもないように描かれる、というのは「男性は女性が自分に気があると都合よく思い込みがちである」というよく知られた心理現象をうまく表現できている。

 また、終盤まで、カルージュの母親が息子と一緒になってマルグリットを抑圧したり、姑として嫁をいじめたりするところもリアリティがある。当時の騎士の家の母親ならそりゃそうなるでしょ、という感じだ。そのぶん、終盤でいきなり自分の性被害経験を告白してマルグリットとの「連帯」や「シスターフッド」がちらっと示されるところは嘘くさくてくだらないと感じた。一方で、マルグリットの友人は完全に性悪であり、シスターフッド皆無で友人を裏切ることをなんとも思っていないところがよかった。

 脇役だけれどフランス王のアホっぷりはよい。彼が決闘の様子を嬉々として感染する姿には『シグルイ』を思い出す。一方で、王女のほうは決闘裁判を明らかに嫌がっていたりマルグリットにひそかに同情している、という対比もいい(これくらいの塩梅なら「シスターフッド」もリアルだ)。

 

 上述したように、この時代における女性もモノ扱いっぷりはひどいし、まず財産扱いで法的地位を持たないというのがひどいし、「カルージュが決闘に負けたら虚偽の告白の罪でマルグリットも処刑されます」というのもひどいし、自分の名誉を守る一心でマルグリットの承諾なく決闘することを決定するカルージュもマジでひどい。強姦されたことを打ち明けた妻を全くケアすることなく「あいつが最後の男になるのはイヤだから」という理由でセックスを強要するのも最悪。男性の視点から見ても、素朴に、「こんな結婚生活を送っていてなにが楽しいんだコイツ?」と思っちゃう。まあ時代的に後継ぎが大切なのであって、結婚生活が楽しいかどうかは重要でないんだろうけれど。

 また、カルージュやル・グリの視点では強調されていなかった「家畜」がマルグリットの視点ではフィーチャーされて、同じく家父長制によってモノ扱いされる存在としての境遇を重ねあわして描いたり、マルグリットだけが家畜に対する同情や慈しみの気持ちを持っていることが描かれる点は、なかなか珍しい表現であるだけにかなりおもしろかった。キャロル・アダムズなどのフェミニズム動物倫理やエコロジカル・フェミニズムの議論を思い出し、もしかしたら製作者もそのあたりの議論を意図しているのかもしれない*3