『モーリタニアン:黒塗りの記憶』
上映規模は小さいし、主役はベネディクト・カンバーバッチでもジュディ・フォスターでもなくてよく知らんアラブ系の俳優だし、カンバーバッチのでてくる政治サスペンスってこのあいだ『クーリエ:最高機密の運び屋』で観たばっかりだし、そもそも「いまさらグアンタナモ収容所?」って感じだしで期待せずに観にいったのだけれど……これが、かなり面白かった。
役柄的には、弁護士と検事というそれぞれの立場から「法の正義」を追求するジョディ・フォスターとカンバーバッチのほうが、タハール・ラヒム演じる主人公のモハメドゥ・サラヒよりも印象に残る。物語のドラマチックさやおもしろさの観点からすれば、モハメドゥは準主人公にしてジョディ・フォスター演じる女弁護士を主人公にするほうがいいかもしれない。とはいえ、弁護士や検事はあくまで脇にまわして、監禁されて苦難を経験していた当事者であるモハメドゥを主人公にすることは、この映画のメッセージ性をふまえると不可欠ではあるだろう。まずはモハメドゥをはじめとする収容者がグアンタナモ収容所で受けた違法で非人道的な仕打ちを克明に描写して伝えることが、この作品の第一の意義であるからだ。
とはいえ、依頼人が有罪であるか無罪であるかに関係なく依頼人の権利を守ることが弁護士の使命であり、容疑者を告発するための証拠に問題があったり不当な尋問が行われていたりすれば告発を取り下げる義務が検察官にはあるという、「法の精神」や「デュー・プロセス」がこの映画の第二のテーマとなっており、物語面でのおもしろさはやはりこちらにある。とくにカンバーバッチはアメリカ軍の利益を代表して悪どく容疑者を死刑に追い込もうとする検事であると思っていたばかりに、彼の苦悩が描かれるだけでなく告発を取り下げるにまで至るとは予想できずに、新鮮な驚きがあった。ジュディ・フォスターも老獪な弁護士としてのプロフェッショナリズムをガッツリと感じさせる役柄であり、経験の足りない「甘ちゃん」な弁護士であるシェイリーン・ウッドリー演じるテリーとの対比も活きていて、意外と出番が少ないながらも魅力的であった
『ブリッジ・オブ・スパイ』でもなんでもそうだけれど、欧米の映画って「正義感とプロフェッショナリズムを両立させた弁護士(法曹)」を描くのが実に得意であるし、現代におけるヒーロー像を最もうまく象徴させられるのはカウボーイでも刑事でも軍人でもなくて弁護士であると思う。
そして、モハメドゥは言うまでもなくイスラム教徒であり、冒頭のモーリタニアにおけるダンスやお祭りのシーンに収容所でのお祈りシーンやコーランなどの「イスラム的」な要素を様々に描きながら、カンバーバッチ演じる検事の「キリスト教精神」も描くことで、ほとんど接点のない二人の登場人物の共通性を示すだけでなく、キリスト教圏の観客に「同じ神」を信じるもハメドゥに感情移入させやすくする…といった構成もかなり上手なものだ。
また、比較文化論的なことはあまり言いたくないんだけれど、法の精神やデュープロセスを守る意志って理性だけじゃ難しくてキリスト教的(宗教的)な使命感やモラルも必要であるかもしれない…とも思わされた。
昨今のインターネットでも「悪い人間」と目された相手に対するネットリンチや誹謗中傷は耐えない。『モーリタニアン』を観ている間は、終始、Twitterにおける諸々の揉め事を思い出してしまった。デュープロセスの必要性を「頭」ではなく「心」で感じさせてくれるという点で、貴重な作品である。
ところで、グアンタナモ収容所で何が行われていたかっていうことは諸々の本で読んでそりゃ知っていたけれど、映像にして改めて示されると、マジでえげつないしひどいし非人道的である。それだけでなく、「どう考えでもこんな拷問で得られる証言って無意味だし、いちど拷問をはじめちゃうとサンクコスト効果とかも影響してどんどん過激になって引き際を判断できなくなるに決まっているし、無意味であることはやる前からわかるっしょ」と思わされてしまう。無意味な拷問ってほんとひどいし、功利主義的な小理屈を並べ立てたところで拷問が正当化できるわけがないことがしみじみとわかった。
無罪になったのに数年も拘束を続けて親の死に目にもあわせないという嫌がらせも、明らかに国とか軍隊とかの「メンツ」の問題でそうやっっているとしか思えなくて最悪。ナショナリズムという名の部族主義の恐ろしさも、「軍隊」という組織が本質的に抱える暴力性や非道性も伝わってくる。軍隊を「警察」に置き換えれば、「グアンタナモ収容所事件のお話だからもう過去のことだ」ともならずに、昨今のBLMにもつながるアクチュアルさをもつ映画として観ることもできるだろう。
そして、デュープロセスをテーマとしている映画であるだけに、「結局のところモハメドゥはテロ事件に関わっていたの?」という点には意図的に答えを出さずに、最後に役者ではないモハメドゥ本人の映像を出すというのはなかなか大胆だが見事なものだ。実際に有罪であるか無罪であるかはもはや問題ではなく、「国家」や「法」のプロセスが適切に機能していたかどうか、ということのほうが重要なのである。