THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『リメンバー・ミー』

 

リメンバー・ミー (字幕版)

リメンバー・ミー (字幕版)

  • 発売日: 2018/05/29
  • メディア: Prime Video
 

 

 2017年(日本公開されたのは2018年)とわりと最近に公開された、メキシコ文化をフィーチャーしたピクサー作品。テーマやメッセージ性を強調した作風であるため、観ている間はてっきりディズニー制作だと思い込んでいたが、視聴後に調べてピクサー作品だと知って驚いた。しかし、思い返してみると、ドタバタで単調なアクションパートの長さはたしかにピクサーっぽかった気もする。

「祭壇に写真が祀られている者だけが死者の日にこの世を訪問できる」「生者から忘れられた死者は死者の国からも消滅する」という死者の国の設定は面白い(世知辛くて地獄みたいな設定だ)。また、主人公のミゲルが死者の国で共に冒険するヘクターに隠された秘密をめぐる展開も、この設定とうまく噛み合っている。そして、曽祖母のママ・ココに高祖父のことを思い出させるためにミゲルが「リメンバー・ミー」をギターで奏でるラストシーンには、かなりグッとくるものがある。死者の国でのドタバタ劇よりも、ミゲルが現世に戻ってからがこの映画のクライマックスで真骨頂だと言えよう。こういう演出の仕方はディズニーやピクサーの映画でも珍しいものであり、新鮮さとともに充実感があった。

 ……とはいえ、物語の大半を占める死者の国パートはそこまで面白くないことが難点だ。ピクサー映画では顕著なことだが、日常とはかけ離れた特殊な世界における独特の価値観やルールが開陳される序盤はワクワクするのだが、いざアクションが始まると単調になってしまうし、どんな設定の世界でも毎回同じような展開になってしまうのだ。

 

 悪役であるエルネスト・デラクルスはちょっとドン引きするくらいのサイコパスである。ディズニー/ピクサーにお決まりの「主人公を手助けする善人だと思われていた人物が、実は悪人であり物語の黒幕だった」という展開ではあるが、現実世界において相棒を私利私欲のために殺害するというリアルな犯罪を実行済みであるぶん、魔女とか悪の科学者みたいなファンタジー的なヴィランたちよりもずっと恐ろしい存在となっている。善人を装っている間の演技のうまさもすごいし、都合が悪くなったらためらいなくミゲルやヘクターを始末することを選択できる冷徹さも恐ろしい。コメディっぽいやっつけられ方でごまかされているが、子供向け作品に出しちゃいけないレベルの悪人だ。

 ヘクターの死に関しては「デラクルスに殺された」という設定ではなく純粋に事故で殺されたという設定にして、デラクルスはヘクターの死後に魔が差してヘクターの歌を盗作したという設定にすることもできただろう。そちらの方がヘクターの悲劇も純粋なものになるしデラクルスを反省させることもできるしで、より後味が良くなって素直にエンディングが楽しめられたと思う。

 

 ところで、「家族」(さらに言えば「血縁」)の価値を強調するこの映画の保守性は公開当時から様々な人が指摘されていた*1。家族が一丸となってデラクルスをやっつける展開もそうであるし、「死者の国に入ってしまった生者は家族からの許しがなければ元の世に戻れない」という設定もそうだし、生者から写真を祀られたり生者から記憶されることが死者の行動力や存亡に関わる点も家族主義に有利なものとなっている。

"戦うお姫様"的な女性キャラクター描写を筆頭にした「価値観のアップデート」がやいのやいのと褒められて、自らも先進性やポリコレ性をウリにした商売を展開している近年のディズニーがこんな保守的なメッセージを主張する作品を発表したことには、たしかに意外な部分がある*2。公開当時には、一部のファンによる「裏切られた」と言わんばかりの悲痛な感想ツイートが印象に残ったものだ。

 しかし、『リメンバー・ミー』でフィーチャーされているメキシコ=ラテンアメリカは元々がカトリック文化圏であり保守的な価値観を持つ人が多い国々なのだ。アメリカ国内でもラティーノの人たちは白人よりも個人主義に否定的で家族主義や保守主義に肯定的である、ということはよく言われている。ダイバーシティという観点から様々な国や地域の文化をフィーチャーしてそこに住む人々を主人公にする物語を創作しようとすると、作中で描くテーマや作中で肯定する価値観は保守的なものにせざるを得ない……これは、グローバル市場(特に中国や中東)への進出を狙っているハリウッドの関係者が今後も直面していかざるを得ない問題だろう。

 物語に複雑な意図やダブルミーニングを込めたり特殊なコンテクストのなかに作品を置いたり挑戦的で挑発的な作風にしたりすることが許される大人向け映画ならどうとでもやりようはあるだろうが、ディズニーやピクサーのようなアニメ作品ではどうしても物語やキャラクター設定を単純なものにしなければならないし、コンテクストも最大公約数的なものにしなければならない。

 だが、欧米を舞台にした映画では個人主義ダイバーシティを強調する作品が年々増えていて、逆に共同体主義や保守的価値観を描くことはどんどん難しくなっている状況だ。そういう視点で考えると、皮肉なものだが、舞台のグローバル化によって昔ながらの素朴な価値観やそれによってもたらされる感動を描いた作品を作る余地が生み出されてバランスが取れている、とも言えるのだ。

リメンバー・ミー』について話を戻すと、わたしのような移民家庭にとっては、この映画における死者の国の設定はたしかにかなりキツい。特にわたしの父親は出身国であるアメリカにも親戚がほとんど残っていない人であり、父親が死んでも母親かわたし(とわたしの兄)くらいしか彼のことを覚えている人はいなさそうだ。わたしも子どもを作ることができなさそうなので、わたしが死んだらその時点で死者の国から父親は消えてしまうだろう。……そして、わたしもすぐに消えてしまう。

 しかしまあそれはそれとして、『リメンバー・ミー』で描かれているような家族主義や共同体主義も、他人事の物語として眺めるぶんには悪くないと思った(自分が巻き込まれたり押し付けられたりするのはゴメンだが)。昔ながらの価値観で描かれる昔ながらの物語には、それなりの面白さがやっぱり存在するものなのだ。

*1:指摘しているブログ記事の例:

wataridley.com

*2:とはいえ、男女のジェンダーに関する描写は現代的なものにしながらも、ディズニーは「家族主義」や「血縁主義」をずっと堅持し続けているような気もする。