THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『ブックスマート:卒業前夜のパーティーデビュー』:「誰も傷つけない笑い」が排除するもの

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 カリフォルニアのハイスクールに通うモリー(ビーニー・フェルドスタイン)とエイミー(ケイトリン・ディーヴァー)は、良い大学に進学するために遊びには目もくれずに勉強に明け暮れていた。その甲斐もあってモリーはイェール大学への進学が決定していたし、エイミーもボツワナにボランティア(現地の女性のためのタンポン作り)に行った末に大学へ進学する予定であった。

 だが、イェール大学への進学を勝ち誇っていたモリーは、遊んでいた同級生達もイェールやハーバードに進学したりグーグルに就職する、ということを知ってしまい愕然とする。モリーとエイミーは勉強ばかりしていたが、同級生たちは遊びも勉強もバッチリ両立していたのだ。

 そして、モリーはエイミーを誘って、同級生が開催するパーティーに乗り込むことを提案する。これまで勉強ばかりだったし同級生ともミゾがあったが、最後くらいは自分たちも高校生活をエンジョイしよう、ということだ。乗り気でなかったエイミーはしぶしぶモリーに従う。しかし、あまりに同級生たちと関わってこなかった二人はパーティーがどこで開かれているかもわからず、開催場所を探し当てるまでにも一苦労も二苦労もする。そして、なんとかパーティーに紛れ込むことができた二人であったが、それぞれの意中の相手に他の恋人がいることを目撃してしまい、さらに二人で大喧嘩もしてしまって……。

 

 エイミーが同性愛者であることやボディ・ポジティブ(婉曲表現)なモリーの体型に象徴されるように、青春コメディでありながらもこれまでのお約束やジェンダー観を破壊する……というか"アップデートされた最新の価値観"を過剰なまでに押し出す、ど直球のポリコレ映画である。どういう文脈で受け止められて、どういう人たちが絶賛しているかは、下記の記事を読めばだいたい察しが付くことだろう。

 

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 ……とはいえ、コメディ映画としてかなりクオリティが高い作品であることも確かだ。上記の記事でも指摘されているように、ジョックとかナードとかのステレオタイプ的なスクールカースト間の"対立"を強調するこれまでの学園コメディ映画の文法を外して*1スクールカースト上位層を見下していた主人公たちが彼らと一晩を共にすることでひとりひとりの個性を理解するようになっていく、というストーリーが描かれている。そのために意外性と爽快感が両立されており、後味の良い仕上がりになっている。

 エイミーとモリーの友情はかなり"シスターフッド"的なものであり、大喧嘩のタイミングを除けばお互いをまったく否定しないものなので、これも気持ちがいいというかノーストレスな仕上がりだ*2。エイミーの同性愛にからめたジェンダーネタやマスターベーションなどの下ネタはけっこうドギツかったりもするが、不愉快になったり気持ち悪くなったりするギリギリのところを避けており、いわゆる"誰も傷つけない笑い"に仕上がっている。

『リーン・イン』やマララさんなどの実在の著書や人物を出しながらのポリコレジョーク…"ポリコレ的なジョーク"ではなく"ポリコレをジョークにすること"…にも、ソツがない。たとえば日本の漫画とかTwitterとかで"ポリコレ"や"フェミニスト"が「外側」からジョークの題材にされるとだいたいは下品で的外れで全く笑えないものになったりするのだが、この作品のように「内側」から、つまりポリコレに賛成している人たちが自分たちの価値観をジョークの題材にすると、面白いものになるのだ。リベラルでジェンダーフリーな最新の価値観を全面に出しながらも、それ自体をジョークの題材にすることで、「わかってますよ」感を出して、「自分たちのことを相対的に見る知性もあるんですよ」アピールもできている。

 また、ルッキズムを否定しているはずのモリーが学校一のイケメンであるニック(メイソン・グッディング)に惚れているという展開についても、「頭ではルッキズムはダメだとわかっているけど身体がそれに従わなくて……」的なセリフをモリーに言わせることで、エクスキューズとジョークを同時におこなえている。けっきょく、モリーは中性的なジャレッド(スカイラー・ギソンド)とくっつくことになるし。……ただし、面白いことは面白いのだが、かなりの"小賢しさ"を感じることも否めない。

 

 リベラルでポリコレなコメディ映画であっても、『デッド・ドント・ダイ』のように出来の悪い作品では、ボコスコに叩いてもいいサンドバッグとしての「無知で無教養な共和党主義の田舎者」を出してしまい、「誰も傷つけない笑い」から脱落してしまうものである。

 しかし、『ブックスマート』では登場人物の人種にもジェンダーにも多様性があることが強調されている一方で、「カリフォルニアの上流ハイスクール」という設定であるためにほぼ100%リベラルな登場人物ばかりだ。ストーリーの展開も登場人物の関係性も、すべて、リベラルたちの間で完結する。

 だから、サンドバッグであったり揶揄の対象として「共和党主義者」や「田舎者」が出てくるシーンは皆無だ。

 そのために、「誰も傷つけない笑い」を貫き通すことに成功している。登場人物たちの個性は、作中の世界設定でも尊重されているし(なにしろジェンダーニュートラルなトイレを備えていて制服なんてもちろん存在しない上流ハイスクールが舞台であるから)、作品自体からも尊重されている……特定の人物の属性が敵役に設定されたり笑いものにされたりする、ということがないからだ。

 だが、思えば、サンドバッグであるとしても作品に登場できるだけマシだったかもしれない。100%リベラルな「内側」の物語であるからこそ、そこから排除されている人々のことがどうしても気になってしまう。 

 

 この作品の欺瞞は、やはり、階級と格差とカネの問題が不問にされていることにあるだろう。主人公たちの通うハイスクールの校長(ジェイソン・サダイキス)は給料が低く夜にはライドシェアのバイトをしているという設定があったり、親の金で同級生の友情や歓心を買おうとするジャレッドがモリーにたしなめられたりするシーンはある。だが、それくらいであるし、それらのシーンもさらっと流されていて本質には切り込んでいない。

 他の同級生たちが親の金で遊びまくるのはもちろんのこと、エイミーの家庭だってどう見ても裕福である。いじめがなかったり差別がなかったりスクールカーストが問題になっていなかったりするのも上流階級のハイスクールだからこそだろう。

 つまりは、「勝ち組」たちの物語であるのだ。これまでの学園コメディ映画では"ジョック"や"クイーンビー"としてカテゴライズされてきてその内面が描かれなかった登場人物たちの個性が描かれるのも、彼らが上流のハイスクールに通っておりハイレベルな大学への進学が決まっているからこそである。作品の序盤でモリーと対立して、そして後半でモリーとの和解が描かれる、"ビッチ"なアナベルモリー・ゴードン)もモリーと同じくイェール大学への進学が決定している、という点は実に象徴的だ。イェール大学にも進学できないようなビッチであったら和解する必要はないし、その個性が描かれる必要もない、ということだから。

 もし彼らが田舎の平凡なハイスクールに通っていて、本人たちもそこまで有能であったり特別な存在でなかったとしら、やはり旧来の学園コメディ映画にしか出る幕がなく、そこでは内面のないステレオタイプ的な存在として扱われる運命に決まっているのだ。

 

 ジョーク的なシーンであるとはいえ、モリー(の代理でジャレッド)が読み上げる卒業答辞に「白人ストレート男性の時代を終わらせて…」という旨のセリフが含まれていることにも、なかなかイヤなものがある。

 たとえばわたしがアメリカの田舎のハイスクールに通っていていじめやスクールカーストに苦しんでいる裕福でも有能でもない男子高校生だとして、なにかの間違いで『ブックスマート:卒業前夜のパーティーデビュー』を鑑賞してしまい、自分と同年代の都会の金持ちたちが人生を楽しみまくって個性を肯定されまくっている物語を散々突きつけられたあとに、最後の方で「白人ストレート男性の時代を終わらせて…」と言われてしまうと、さすがに唖然とするだろう。「せめて、そこに"金持ち"や"有能な"とかも付け加えてくれない?」くらいは言いたくなるというものだ。

 

 すこし勝手は違うが、日本における、京都大学早稲田大学などの一部の上流大学だけに「自由な学風」や「破天荒さ」が許されていて、他の大学の学生がやったら鼻白まれることでも京大生や早大生だけは許される、みたいな風潮に感じるイヤさに近いものがある*3。「大文字を犬の字にした」とか「高田馬場のロータリーを占拠した」的な武勇伝とか、吉田寮に対する憧憬とか、ああいうのだ。学歴の問題が能力主義とか経済格差とか地方格差に直結するのは自明であるはずなのに、そこを不問にしてリベラルさや反体制のイメージを讃えるのってバカじゃないの?という問題である。

 

 ついでに言うと、登場人物が未成年のくせに酒を飲みまくっていたりドラッグをやっていたりセックスしたりしていることも気に食わなかった(どれもわたしが高校生の頃には体験していなくて羨ましいので)。まあこれはアメリカの学園コメディ映画全般に当てはまることだけれど…。

*1:とはいえ、これ自体が「学園コメディ映画」に対するステレオタイプ的な言い草ではあるが。

*2:いや、正直にいうと、わたしはストレスを感じた。女性キャラクターたちは互いに全肯定しあわなければいけない、女性同士の対立を描くことは女性の連帯を分断する家父長主義的な規範の再生産なのでNG、みたいな裏返しの制約や束縛やステレオタイプを感じ取ってしまったからである。

*3:

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