THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『アメリカン・スナイパー』

 

アメリカン・スナイパー(字幕版)

アメリカン・スナイパー(字幕版)

  • 発売日: 2015/06/10
  • メディア: Prime Video
 

 

 このあいだ『ミリオンダラー・ベイビー』を再視聴したら以前観たときよりもずっと面白く感じられたのだが、同じイーストウッド監督の『アメリカン・スナイパー』については、公開当時に劇場で観たときは感心できたのだが改めて観てみるとどうにも退屈だった。

 なにが退屈か考えてみると、これを言っては身も蓋もないが、イラク戦争(やアフガン戦争)などのような「中東」を舞台にした戦争って、そもそも映画の題材とするには「映えない」のだ。

 ジャングルを舞台にしたベトナム戦争や太平洋戦争のようなワイルド感や恐怖感もなければ、雪が降っていたり塹壕を掘っていたりするヨーロッパ戦線のような荒涼感や美しさもない。また、味方(アメリカ軍)と敵(現地の残存戦力たち)の戦力が違いすぎて、戦闘はいつも散発的でパッとしないものになる。そこで起きるイベントも「味方かと思っていた現地人が敵でしたが、なんとか事なきを得ました」みたいな、いまいち煮え切らないものでばかりあったりするのだ。そもそも勝利条件も曖昧であったり戦争の大義自体が往々にして疑われたりしていて、そうなると作品としてもスッキリさせたり明確な筋を与えたりすることが難しくなって、その曖昧さや五里霧中感そのものを作品に昇華しようとする試みもあったりはするのだが、まあうまくいくことは稀である。

 だから、『ハート・ロッカー』にせよ『アメリカン・スナイパー』にせよ、爆弾処理係であったりスナイパーであったりの個々の兵士の役割や内面に焦点を当てることでサスペンス感やドラマ性を出そうとはするのだが、それにも限界がある……という感じだ。

アメリカン・スナイパー』では、二度ほど強調されることになる「爆弾とかバズーカとかを持った子供を撃つかどうか」という葛藤のドラマと、「虐殺者」(ミド・ハマダ)とか「ムスタファ」(サミー・シーク)とかの"敵役"を主人公のクリス・カイル(ブラッドリー・クーパー)が打ち倒せるかどうか、という戦闘のドラマが強調されることになるのだが……後者のドラマについては事実と違うことは確かであるし、前者のドラマも実際にあったことかもしれないがどうにも作り物っぽさというか古典的という感じが漂う。

 主人公クリスの英雄性を強調する作劇であるためにそのほかのアメリカ兵は完全に彼を引き立たせる脇役でしかなく、彼らがムスタファに狙撃されたところで観客としては「あ、死んだ」というくらいしか感情が湧かない。そのため、せっかく"友の仇を討つ"という要素があるのにイマイチ燃えるものがない、というところも問題だろう。

 

 とはいえ、『アメリカン・スナイパー』ではイラク戦争というアメリカ史のなかでも類を見ないくらい大義をかけた戦争を扱いながら、戦争のシーンでは主人公であるクリスの内面に寄り添った作劇にすることで「祖国を傷付ける蛮人たちに対する復讐」とか「"番犬"として"狼"をやっつける」とか「戦友の仇討ち」というドラマ性を与えることで、戦場が映されている間はおおむねスカッとする物語になっている。……しかし、戦場からアメリカに帰還している場面では、妻のタヤ・カイル(シエナ・ミラー)の視点も交えることで戦争のトラウマに苛まれて徐々に人間性を失っていくクリスの負の側面が強調される。この、戦場が「正」で日常が「負」であるという逆転構造により、「戦争は生き残ったものの心を壊す」といった『ディア・ハンター』的なテーマが強調される……というのはなかなか独特だ。

 俯瞰的に見れば、イラク戦争でのクリスの活躍などの戦争を肯定している部分はあくまで「クリスの視点から見た物語」と括弧に入れられているのに対して、PTSDや後遺障害に苛まれるクリスやそのほかの兵士たちの苦悩や狂気といった戦争を否定している部分はより客観的で広い視点から描かれているので、作品としては反戦的なメッセージを放っているとは言えるだろう。

 ……だが、たとえば冒頭でクリスの父親が息子たちに放つ「羊、狼、番犬」の用語を用いた素朴で幼稚な正義論、それに裏打ちされた戦争に行く前からクリスが抱えていた善悪二元論愛国主義までもが否定されているわけではない。というか、そこはむしろ肯定されているような気すらする。

 たしかにクリスは戦争によって人間性を失っていったが、もとからちょっとヤバいやつではあっただろう。まあそもそもある程度ヤバかったり単純であったりしないとネイビー・シールズに入って英雄になれたりしないものではあるだろうが……*1。そこのヤバさをあえて否定せずに寄り添って赤裸々に描いたことは立派であるのだが、しかし、この作品が「保守」や「右翼」の立場にあることは疑いようもないと思う。実際の映像が使われた、エンディングの葬送の場面における溢れんばかりの星条旗が、それを象徴している。反戦映画であるからといって、反軍隊映画や反国家主義映画であるとはかぎらない、ということなのだ。

 

*1:そういえば、クリスよりはずっとマシであるとはいえ、リチャード・ジュエルもなかなかヤバい人物ではあった。