THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『容疑者Xの献身』&『舟を編む』

●『容疑者Xの献身

 

 

 

 

 ずっと前にネットで情報を見たか友人からネタバレされたかでメインのトリックは知っていたんだけれど、そこを前もって知っていても特に面白さに支障がないタイプの映画で、そこはよかった。

 要するに、北村一輝が演じる数学者・草薙の純粋な"献身"に惚れ惚れしつつ(悔しいけどこのタイトルは作品の魅力を実に的確に伝えていて素晴らしいと思う)、主人公の物理学者を演じる福山雅治のイケメンっぷりにも惚れ惚れして、ついでに柴崎コウ演じる女性刑事のそこそこの可愛さにもほんわかしておけばいい映画であるのだ(松雪泰子に関しては作中で美人と連呼されるせいで「そんな美人じゃないでしょ」という違和感が先立ってしまった)。

 

ja.wikipedia.org

 

 Wikipediaによると『メインの犯行とは別個の、道義的には遥かに悪質な行為がトリックの手段として淡々と描かれながら「感動的なラスト」と評されたことについても議論となった』そうだが、これは、作品を見る前にトリックだけを知っていた状態のわたしも「ひでえ作品だな」と思っていた。しかし、いざ観てみると、「純愛」や「感動」の描き方や演出がなかなか上手で、「まあ騙されてやってもいいかな」というくらいには思えるようになった。

「主人公が数学者に殺されちゃうでしょ」と思わせてくる雪山でのミスリードは尺稼ぎという雰囲気がありつつもなかなかスリリング。元ホステスのシングルマザーとその娘が住む部屋の散らかりっぷりとか狭さはなんか「貧乏」を表現できている感があっていい。福山雅治が焚き火をしている大学構内はなんか妙に懐かしくてノスタルジックだった。また、そのほかの画面についても、平成が舞台であるはずなのに昭和を思い出せるくらいにノスタルジックな風景が連続しており、それが作品の魅力となっているように思える。

 

●『舟を編む

 

 

 

 主人公の松田龍平は苦手だけど、オダギリジョーはかなりキャラクターも見た目もかなり魅力的だった。加藤剛はなんだか役所広司に似ていると思った。宮崎あおいは美人だけれど「幼さ」が不安になるくらいに残っている、ちょっと特殊な見た目をしている女性だと思う。

 

 話としては、「辞書を編纂する」という行為やその背景にある「出版文化」さらには「書籍」「本」「活字」に対するファンタジーフェティシズムノスタルジアありきで、それを相対化したり脱構築したりする視点がほぼ皆無であるため、単調で甘ったるく薄っぺらい。主人公の苗字がマジメなところも「ふざけているのか」って感じだ。

 アメリカ人はなんだかんだ言ってフェティシズムノスタルジアを直球で描くことには「照れ」を感じるから、『舟を編む』がアメリカで撮影されていたら、インターネットの時代では辞書が役に立たなくなったり主人公たちの好意がそもそも全く無意味であったり、主人公がマジメの皮を被った思考停止野郎や近視眼野郎であることを示唆するシーンを入れたりするなど、ズラしやハズしによる相対化を必ずや付けくわえていたことだろう。

『マインド・ハンター』を観ていて気付いたことの一つは、「お仕事もの」作品が傑作になるためには「仕事」に対するニヒルで冷徹な視点が不可欠である、ということだ。本人の人生がかかっていたり、狭い視点では壮大な「価値」を含むかのように見えるものが社会と経済と世間の観点からすれば全くそうではないかもしれない、という洞察へと観客を導いてこそ、作品の深みが増すというものである。

 ところで、三浦しをんといえばBLなイメージがあるけれど、この映画における松田龍平オダギリジョーは誰がどうみてもBLなものであったように思える。宮崎あおいは取ってつけたような存在だったね。しかし編集者連中が料亭でいいもの食っているシーンはなんか「文化」野川に属している人々の無意識の傲慢さがあらわれているようで無性にムカついたな。