THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『エターナルズ』:多様性と人間中心主義

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 マーベル映画の「ポリコレ性」についてはこのブログでも何度か論じてきたが、基本的に、『ブラックパンサー』や『シャン・チー』のように「主流派の文化やアイデンティティとは異なる文化やアイデンティティが秘めている魅力やパワー」を強調した、ポジティブで前向きな描かれ方をしている作品については評価している一方で、『キャプテン・マーベル』や『ファルコン&ウインター・ソルジャー』のように「マイノリティがマジョリティから受ける被害や抑圧」を強調したネガティブな描かれ方をしているものには低評価を下している。映画では「被害」や「抑圧」を描くべきでない、なんてことを言うつもりはないが、「強さ」と「社会奉仕」が不可欠である「ヒーローもの」というジャンルとはあまりに相性が悪くて、ちぐはぐで歪な作品になってしまうのだ。

 この点、『エターナルズ』の「ポリコレ性」はポジティブなものであり、そこに関しては好評価を与えられる。また、人間より上位の存在な「神の使い」たちであり「作られた存在」でもあるエターナルズたちのなかに含まれている多様性の描き方は、白人社会と横並びで対比されるワカンダやター・ロー村の人々に関する描写とはだいぶ性質が違っていて、新鮮なものである。

 ……細かく言えば、エターナルズの全員が「人間」の姿をしている必要はなかったはずだし、動物系とか植物系とか不定形がいてもいいものだろう。キリスト教的・古代ギリシア的な意味での「神の似姿」であるとしても、異性愛とか同性愛とか以前にそもそも生殖もできない存在に「性愛」に関する感情が設定されている理由も不明であるし、聴覚障碍者も普通のヒーローチームならともかく「神の似姿」であるエターナルズに含まれていることには説明が必要とされるはずである。通常の人間なら障碍者であることに「意図」や「理由」は求められないが、そもそも人工的な存在であるエターナルズの場合には、(エターナルズの第一義的な存在理由である「戦闘」において不利になりかねない)障碍者であることには「意図」が働いていて、「理由」があるはずだからだ(これは「子ども」に関しても同じ。まあ本人が「なんでアリシェムはわたしを子どもの姿にしたの?」と嘆いている台詞があったので、次作以降で理由が説明されるかもしないけれど)。……このあたりには、「チームものの群像劇でありいっぺんに大量のヒーローを新登場させられる『エターナルズ』だから、これまでに登場させられなかった同性愛者や障碍者も登場させよう」というMCUフランチャイズにおけるメタ的な意図と、単品作品それ自体の設定との調整が取れておらずに矛盾が生じる結果となったように思える。

 

 とはいえ、設定面の矛盾や疑問点を無視すれば、文字通りに色々な肌をしておりそれぞれに異なった文化的背景を持っている個性豊かなメンバーが活躍する姿は見ていて楽しいし、「多様性」というのはそれ自体が魅力でありポジティブな気持を与えてくれるものであるということを思い出させてくれる(……とはいえ、たとえばインド系っぽい肌の色や顔立ちをしたエターナルズが「おれはこういう色や顔立ちをしているからインドに溶け込んでインド人らしいアイデンティティで生きていこう」と判断したようである、というのが、先天的な属性と所属グループの「文化」と生き方が分かちがたく結びつけさせられている点で実にアメリカ的なものであることには留意したい。人間とは異なる存在であるエターナルズだからこそ、肌の色や性別のような属性に縛られることなくみんな自由に活き活きと好きな場所で好きなことをして生きている、という描き方もありえたはずだ)。

 

 また、敵役であるディヴィアンツはエターナルズと同じく「神」であるアリシェムに血生臭い殺し合いを強制させられた、エターナルズと表裏一体な哀れな存在であることが示されており、エターナルズを何人か吸収することで知性と「良心」が目覚めたことも作中で明言されるのに、とくに救いが与えられることもなくセナ(アンジェリーナ・ジョリー)によるギルガメシュ(マ・ドンソク)を殺されたことへの復讐の対象となってやっつけられて終わり、というのはプロット上の明確な欠点であるだろう。途中からイカリス(リチャード・マッデン)が裏切って敵に回り、クライマックスもイカリスとほかのメンバーが激闘しているところでこっそり海からあらわれて戦いに割って入ったはいいもののショボい洞窟にセナと二人で移動してショボい策を弄したところショボい技でやられて……と、いかにも「添え物」な終わり方をして締まりがない。「愛は地球を救う」的な終わり方であり、イカリスもセルシ(ジェンマ・チャン)の愛によって許されるというエンディングであったからこそ、セナによる復讐は肯定されるというのはちぐはぐだし、「その愛の輪のなかにディヴィアンツを入れてやろよ」と思ってしまう。エターナルズが「神の似姿」であることも含めて、この作品には徹底した「人間中心主義」が存在していることを見逃してはならない。

 関連して、セナはせっかくアンジェリーナ・ジョリーというほかの俳優陣よりもずっと「格上」な女優を使用しているのに、戦闘特化のキャラなのに持病ですぐに我を忘れるから戦場では仲間にとってむしろリスク要因となって使い物にならず、ついでに言えば純粋な戦闘力もイカリスにくらべてかなり劣っているように見える、性格面でも復讐に駆られる直情的な戦闘狂という典型的バトル漫画キャラでそのくせ大して強くないものだから魅力ナシ、と実にもったいない。そこら辺の量産型の気が強そうな若手白人女優でも演じられそうなキャラであり、アンジェリーナ・ジョリーの熟した魅力が発揮できる役柄ではないのだ。

 

 ……とはいえ、「愛は地球を救う」という古臭いクライマックスは今時なかなか見かけないものであるために、逆に新鮮で感動してしまった。MCUの「ポリコレ性」も「性愛中心主義」に対する批判にまでは届いていないということだが、面白い物語をつくるためにはそれでいいと思う。

 作品の公開前から監督のクロエ・ジャオが『幽遊白書』のファンであるということが話題になっていたが、そうでなくても、全体的に「マンガ感」の強い作品だ。霊丸やかめはめ波を思い出させるキンゴ(クメイル・ナンジアニ)の戦闘描写やドラゴンボールのセルのように敵を吸収するたびに変化して強くなるディヴィアンツの設定はもちろんのこと、自分に自信がなくて秘めたるポテンシャルを自覚できていない主人公のセルシのキャラクター性や、チーム内にカップルが何組かいたり三角関係にもなっちゃったりする恋愛描写の多さなども、なんだか「ひと昔前のバトル漫画」っぽい。また、クライマックスは思いっきりエヴァンゲリオンだ。ついでに言うと、エターナルズとアリシェムとの関係性は最近の『キン肉マン』における超人と超神の関係性にそっくりである。

 同じ監督の『ザ・ライダー』や『ノマドランド』が地味で退屈であったために期待していなかったが、バトルシーンのアクションは派手であるうえに各キャラクターの能力がきっちりと機能した目まぐるしい集団戦を描き切れているし、なにより、セレスティアルズたちのスケール感を活かした映像表現が素晴らしい。『デューン』じゃなくてこちらをIMAXで見ればよかった、と激しく後悔してしまったくらいである。

 現代パートの序盤はセルシにスプライト(リア・マクヒュー)にイカリスにと湿っぽくまじめ腐ったメンバーばかりのためにやや退屈になってしまうが、キンゴとその付き人(ハーリッシュ・パテル)が登場してからはコメディ描写も増えていって、一気に楽しくなる。魅力的なギルガメシュがあっという間にやられてしまうのはもったいないし、「悪堕ち」をにおわせていたドルイグ(バリー・コ―ガン)がかなりあっさり仲間になってしまうのもどうかと思うけれど、科学者キャラのファストス(ブライアン・タイリー・ヘンリー)は個性が強くてよい。「地球の一般人代表」としてエターナルズと一緒に行動するのが、ほかの映画なら若い女性となりがちなところを、インド人のおじさんである、というところも気が利いていて楽しい。また、最終決戦の前にキンゴが離脱して、「いいタイミングで助太刀にくるんだろうな」と思っていたらほんとに最終決戦には参加しないままで、すべてが終わった後にとくに気まずそうにすることもなくふつうに仲間と再会して会話している、というのもかなり珍妙な展開であるが、まあ「多様性」をウリにしているエターナルズなのだから決戦に怖じ気ついて参加しないやつがいてもいいかなと思う。

 

 二時間以上の長さのためにダレるところは多いが、キメるべきところはきっちりとキマっているし、「群像劇」という形式がゆえにこれまでのMCU作品とは明確に違った味を出せている(同じく群像劇の『ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー』とはシリアス/コメディとで差別化できているし)。「マンガの実写化」という観点から見ても、キャラクターの設定からバトル描写まで、MCU作品の平均値よりもクオリティはだいぶ高いだろう。一緒に観た人との会話はかなり盛り上がったし、反芻できるポイントも多くて、なかなかおススメできる作品だ。

 ……しかし最後に文句を言うと、人間の文化や文明の進歩もエターナルズのおかげでした、というのは人間の知恵や学問の発展の歴史や自由意志をナメられているような気がして、どうにも気が食わない。エンディングクレジットで世界各国の神話や宗教に関するモチーフが描かれて、「これらの神話や宗教もぜんぶエターナルズ由来でした」と匂わされるところも、監督が白人だったら批判されたり炎上させられたりしていた可能性があると思う。