THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』:ボンドが「有害な男らしさ」から脱却しちゃった

f:id:DavitRice:20211015121901j:plain

 

 

 一年半も公開が引き延ばされたクレイグボンドの最終作を、満を持して鑑賞。事前にPrimeVideoで007シリーズが前作配信されたことでクレイグボンドの過去作品を観返すことができて、ヒロインのバックグラウンドとか「ミスター・ホワイト」というキャラクターがいたことを思い出すことができたけれど、そうじゃなかったら危なかったな。『スペクター』ですら6年前の作品なんだぜ。

 

 予告編とか事前の盛り上げっぷりから、さぞやシリアスで気合の入った名作であるんだろうと思っていたけれど(それこそ『ダークナイト』的な)、いざ観てみたら『スカイフォール』や『スペクター』以上にユーモアたっぷり、アクションは軽快、ガジェットやヴィランは脇役はバカバカしくてクライマックスは熱血少年漫画の趣すらある、楽しいエンタメ作品に仕上がっていた。……とはいえさすがに2時間45分は長過ぎで、北欧の森のなかで中ボスとウダウダやっているくだりは眠気がすごかった。

 

 すでに色んな人が指摘しているけれど、クレイグボンドの最終作でまたもや「ジェームズ・ボンド映画の脱構築と再構成」をやってしまっているのはどうかと思う。『カジノ・ロワイヤル』や『スカイフォール』でもやっていたんだし、5作中3作で脱構築と再構成をしているって本末転倒じゃない?

 

 そして、見え隠れする「ポリコレ」要素に関しては、良し悪しといったところだ。

 

 アナ・デ・アルマスはこれまでのボンドガールのアベレージを大幅に上回るエロエロなおねーちゃんだけれど、そんな彼女の性格を男女の機微やコミュニケーションに疎いアスペルガー気質にすることで、いつもの「ボンドになびくボンドガール」という展開を自然と回避しているところはうまい。彼女とボンドのやりとりもかなりユーモラスで笑ってしまった。とはいえ、中盤以降に再登場しないのは映画として不自然だし、「うちらはこれまでのボンドガールの描き方よくないと思っています」というエクスキューズとか意見表明のためのキャラクターになってしまっているきらいはある。まあエロかったしおもしろかったからいいんだけれど。

 

 ボンドの同僚の「新007」ことラシャーナ・リンチは、いちいちボンドと張り合おうとする性格の小物っぽさがギャグにつながっていて、そして性格とは裏腹に実力は十分なところが魅力的だ。ふつうならこういうキャラクターはシリーズの真ん中あたりで登場して、実力が足らずに死んじゃってボンドとMに後悔させたり反省させたり渋い顔をさせたりする役割を担うところだけれど、まあシリーズ最終作に出るんだったらボンドと同等の実力をもっていても不自然ではないだろう(アフリカ系女優を「実力足らずで死んじゃいます」という役柄にしたら炎上必至だろうし)。ボンドと再会したマドレーヌがホの字になっているところを見て「女はみんなあんな風になっちゃうの?」「五分五分だ」と会話するくだりもおもしろかった。

 また、ナオミ・ハリス演じるマネーペニーと新007、ふたりのアフリカ系女性にボンドが挟まれている画面は新時代的ですなおに「いいね」と思えた。ナオミ・ハリスもかなりかわいくて魅力的な女優だし。いっぽうで、敵の本拠地にて、デヴィッド・デンシクが演じる敵の科学者(コメディ調でそこそこ魅力的なキャラクター)が唐突に人種差別発言をして新007が唐突にキレて処刑する、というくだりは明確によくなかった。新007のプロフェッショナルっぽさが損なわれてしまうし、アフリカ系俳優を出すから無理して人種差別の問題に言及した、というのがミエミエである。『ファルコン&ウィンターソルジャー』のときにも書いたけれど、「アフリカ系をフィーチャーするなら人種差別の問題を取り入れなければならない」という縛りを設けるのは作品の多様性もキャラクターのヒーロー性も削減してしまうし、とくにそれまで「カラー・ブラインド」でやってきたシリーズやフランチャイズでこれをやられると違和感がすごいのだ。

 

 とはいえ、おそらくこの映画の最大のポリコレ要素は、ボンドが「妻」以外とはチューもセックスせず、女性と子どもを守るために自己犠牲をして、娘のためならぬいぐるみを拾いにいってしまう、「有害な男らしさ」から脱却した(ケアする?)男性になっているところだろう。つまり、いかにもジェンダー論や男性学をやっている批評家が喜びそうなキャラクターになっているのだ。

 

 わたしの感情的には賛否が半々で、背景にあるジェンダー論や欧米の「流行」があまり にミエミエであり、フィクションの作り手が「流行」を無批判に受け入れて自分たちの作品を「流行」に屈しさせている様子には、劇場で鑑賞しながら「しょうもねえなあ」と思いつづけてしまった。これからは007に限らずにどのシリーズのどんな作品も「流行」にあわせた「脱構築」や「再構成」が施されていくんだろうけれど、そうなると映画の多様性は失われるし、人々が感じたり抱いていたりするリアリティとロマンが表現されることがなくなってしまって、映画は底の浅いメディアになってしまうと思う。

 そもそも、「流行」に従わずに独自の世界を描いて独自の価値観を示すところにフィクションの存在意義ってあるはずだし…(まあ映画はほかのジャンル以上に「商品」としての要素が強いから「流行」に抗うのは難しいのかもしれないけれど)。

 

 とはいえ、レア・セドゥ演じるボンドの奥さんのマドレーヌは『スペクター』の頃からさらに美人になっているし、ボンドの娘さんも実にかわいい。あんな美人の奥さんと娘がいたらわたしだって浮気しないだろうし、命を賭すことにもやぶさかではない。

 奥さんに裏切られたと勘違いしてふてくされたり、同僚が奥さんと会っていることを知ってやきもきしたり、奥さんとの再会を喜んだり、そして子どもの姿をみてデレデレしてしまうボンドの姿はひとりの「男」としての等身大の人間味があってかなり魅力的だ。娘を救うためなら土下座までしてしまうなど、クールでスカしたところをまったく無くして泥臭くがんばるおっさんとしての活躍が、しっかり描けている。一作目から登場してきたCIAのフェリックスとの友情描写もバッチリだ。

 しかしまあ、最終作だから死ぬのはいいんだけれど、ボンドが死を選択する過程はかなり無理がある。というか、最後の空爆シーンは「これでボンドが死んだとは思えない……」であって『ダークナイトライジング』的に「実は生きていました」描写であるはずだと思いながら観ていたらほんとに死んじゃっていてびっくりした。

女王陛下の007』の引用は何度も出てきて「くどい」と思ったけれど、エンディングはさすがに奇麗に収まっているしロマンティックだしでちょっと感動した。でも、これについてもPrimeVideoで配信されていなかったら『女王陛下の007』を観ていなくて意図をちゃんと理解することができなくて微妙だったなあと思う。たぶんそういう観客のほうが多いでしょ。

 

 これまではボンドのために女性が死んできたのがこれからは女性のためにボンドが死ぬ、というのがこの映画における「脱構築」や「再構成」、そして「ポリコレ」要素のキモとなるわけだが、言わんとすることはわかるけれど同意できるかどうかは別の話。

 

 これからの男性ヒーローには、「有害な男らしさ」から脱却するのはもちろん、ボンドガールや敵の奥さんとのエッチや不倫といった「ご褒美」も我慢して、ただひたすら世界(女性)を守るために自分の命を賭すことが要求される、というのはずいぶんと酷な話であるとも思う。でもまあそれがヒーローというものかもしれないけれど。

 

 ベン・ウィショー演じるQに関しては完全なギャグキャラになってしまっていたけれど、彼が登場するシーンはどれも笑える。ボンドからのパワハラ描写は様式美になっているし、新旧どっちの007も使い方を知らない空飛ぶ潜水艦に搭乗させるくだりとか、クライマックスでボンドがQの忠告をガン無視しながら発電器を起動するくだりはギャグマンガ的な趣すらあるけれどやっぱりおもしろい。満を持して登場した飼い猫がかわいくなかったのだけが残念だ。

 

 ラミ・マレック演じるサフィンは予告や冒頭での存在感はすごいが、結局この映画の主眼はジェームズ・ボンドの再構成にあるため、ヴィランの連中はほぼ舞台装置にしかなっていない。むしろ、「ボンドが見え透いたお世辞やおべっかを使う」というギャグシーンが用意されているぶん、クリストフ・ヴァルツ演じるスペクターのほうが登場時間は短いけどずっと印象的であった。笑顔が気持ち悪いビリー・マッセンも、しつこい義眼野郎のダリ・ベンサラより印象的だったな。

 スペクターの勿体ぶった登場の仕方や幹部連中がバタバタと倒れていくシーン、サフィンの目的についてMに尋ねられたボンドが「どうせまた世界征服と”自由を無くす”とかそんなんでしょ」とうんざり気味に答えるシーンなど、ヴィラン関係についてはシュールギャグな部分ばっかりが目立っていたような気がする。そのギャグはどれもおもしろいのでアリといえばアリなんだけれど、『カジノ・ロワイヤル』や『スカイフォール』のときのようなヴィランの恐ろしさと存在感がすっかりなくなっているのは残念。

 また、メタ的でシュールなギャグの多さには、『スカイフォール』や『スペクター』にもあった「MCUっぽさ」をさらに強く感じてしまった。小粋なギャグを連続して間延びを防ぐ、というのが現代におけるエンタメアクション映画のスタンダードとなっているのだろう。たしかにずっとシリアスで重苦しいお話を進行させられるよりはずっといいんだけれど、緊張感が失われるのは否めない。

 

 ヴェスパーの墓を訪れたら爆発してそこから怒涛のカーチェイスが始まりマドレーヌとの別れに至る冒頭には一気に惹きこまれた。その一方で、中盤の森での戦闘や敵の基地に突入するクライマックスはアクションがどうにも映えないし、舞台や背景の印象も薄い(ハイテク畳の部屋はシュールでよかったけれど)。

 

 やっぱり、脱構築と再構成はクレイグボンドでやりきったんだから、次のボンドは、脚本やアクションやキャラクターのかけあいやストーリーのテンポなどなどは2020年以降のスタンダードにアップデートしながらも、ジェームズ・ボンドは毎回ボンドガールとエッチしたり敵の奥さんと不倫したりしてそれで3回に1回は相手の女性を死なせちゃうような、「いつもの007映画」をやるべきだろうなと思う。だって007映画から「有害な男らしさ」とかミソジニーとかを取り除いちゃったらもう他のヒーロー映画と差別化することができなくなってしまうもの。ほかの制作者たちが「価値観のアップデートされた作品」を量産しつづける現代であるからこそ、昔ながらの価値観に基づいた映画は価値をもつはずだ。