THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『ジョジョ・ラビット』:「上手さ」の際立つ感動的な作品

 

ジョジョ・ラビット (オリジナル・サウンドトラック)

ジョジョ・ラビット (オリジナル・サウンドトラック)

  • 発売日: 2019/10/18
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 私はそもそも「少年」が主人公の洋画が好きだ。と言っても『IT』や『スタンド・バイ・ミー』のような少年グループの青春ものは全然好きじゃないのだが、一人の少年が大人の世界の理不尽や不条理に振り回されるタイプの少年ものであれば共感できるので好きである。映画作品としても、少年グループが主人公のものよりも一人の少年が主人のものの方がより文学的で感動的な作品が多いような気がする。『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』は人生ベスト級の作品だ。

ジョジョ・ラビット』も主人公のジョジョは少年である。ヨーキーという名前の友人は一応は存在するが、彼は早々に少年兵となってジョジョの元を去ってしまい、たまに故郷に帰った時に登場するくらいだ。ジョジョの周りにいるのは「イマジナリー・フレンド」のヒトラースカーレット・ヨハンソン演じる母親、サム・ロックウェル演じる教師的な立場の軍人、そして自宅の屋根裏部屋で母親が匿っているジョジョより年上のユダヤ人少女くらいだ。ジョジョユダヤ人少女に関する「秘密」を一人で抱えながら*1ユダヤ人少女や大人たちと接していくことで物語は展開していく。

 

 この作品の予告や宣伝などではヒトラーがイマジナリー・フレンドであるというかなり奇妙でオリジナリティのある設定が強調されている。また、「ユダヤ人少女をかくまう」という設定は決して珍しいものではないのだが、少女の年齢をジョジョより少し年上に設定することで、ジョジョと年上の少女との間のちょっとした淡い恋愛感情入りのジュブナイル風の交流を描くことを可能にしている。「つかみ」のあるこれらの設定の上手さが、この映画の第一の特徴だ。

 また、大筋の設定以上に、個々の場面の描写の仕方や脚本的な工夫などからも「上手さ」を感じられる。特に、ある場面でスカーレット・ヨハンソン演じる母親の靴を何気なく強調すること(大人と子供の身長差を利用した演出であることがまた自然で上手い)が後の重要な場面でかなりの効果を発揮すること、「ハイル・ヒトラー」の挨拶を連続で行う場面がギャグシーンとして描かれた直後に緊迫感のあるシーンでも利用されることなど、「技巧」を意識せざるを得ない場面が多々ある。この上手さもここまでくると良し悪しというか、「あざとい」「これ見よがしだ」という感想を持つ人もいるかもしれない。

 また、俳優陣も素晴らしい。何と言ってもスカーレット・ヨハンソン演じる母親はセクシーでゴージャスでありながら「親」や「母」であることがしっかり強調されている役柄であり、これまでのスカーレット・ヨハンソンの役柄のイメージと全く違っているのが素晴らしい。一方でサム・ロックウェルは『リチャード・ジュエル』に登場する弁護士と全く変わらない「頼れる頑固者」の役柄のままだが、なにしろ頼れる頑固者の演技が板につき過ぎているのでこちらも良い。主人公のジョジョを演じるローマン・グリフィン・デイヴィスも子供離れした演技力であるし、脇役のヨーキーを演じるアーチー・イェーツも良い*2

 最後のシーンの爽快感や開放感も素晴らしく、私は劇場で泣きそうになるくらい感動した。感動した理由は、作品自体のレベルの高さや「上手さ」と、そもそも少年が主人公の作品が好きであるという私の好みとの相乗作用だ。いずれにせよ、かなり質の高い作品であることは間違い無いだろう。

*1:イマジナリー・フレンドのヒトラーと秘密を共有してはいるのだが。

*2:子役という存在には児童に対する搾取や虐待の可能性が付きまとうので、手放しで子役の存在を肯定することはあまりしたくないのだが。

『キャプテン・マーベル』:「フェミニズム映画」と「ヒーロー映画」は両立するのか?

 

キャプテン・マーベル (字幕版)

キャプテン・マーベル (字幕版)

  • 発売日: 2019/06/05
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キャプテン・マーベル』は、一つのアクション映画やエンタメ映画として見てみると、世間的にもさほど評価されていないようである。アクションやエンタメとして明確な欠点があるわけでもないのだが、目立ったオリジナリティがあるわけでもないし、特に盛り上がったり画的に印象に残るシーンがあるわけでもない。話の筋もまあ普通のヒーロー映画のオリジンものという感じだ。というか、特にマーベル映画では、オリジンものはさほど面白くない作品の方がむしろ多数派である*1。比較してみると『キャプテン・アメリカ』や『マイティ・ソー』や『ドクター・ストレンジ』などよりかは『キャプテン・マーベル』の方がまだ多少は面白かった。『ブラックパンサー』と同じくらいの面白さだろうか*2。90年代という年代設定のために「アベンジャーズ」シリーズのなかでは時系列が前の方に戻っており、キャラクターたちの若い頃の姿や過去のウラ話みたいなものが楽しめるという面白さは存在するが、これは映画自体の出来の良し悪しとはまた別の話だ。

 

キャプテン・マーベル』に他の数多のヒーローものとの明確な違いをもたらす要素であり、また『キャプテン・マーベル』が一部の層に高く評価される代わりに別の層からは低く評価される原因となっている要素が、「女性に対するエンパワメント」を中心としたフェミニズム的要素である。

 同じく女性がヒーローの映画であっても、DCの『ワンダーウーマン』にはフェミニズム要素がほぼ存在せず、その要素を求めていた一部の観客を失望させてしまったようだ。ワンダーウーマンというヒーローには、街中で赤ん坊を見て喜んだりジャスティスリーグのなかでは感情的な男性たちをなだめすかしたりケアしたりと、「母性」的なイメージがつきまとう。また、『ワンダーウーマン』では前半こそは女性だらけのアマゾネスな世界が舞台となるが、中盤以降では主人公は男性だらけの軍事部隊に参加して、彼らのミッションに協力することになる。そしてワンダーウーマンは軍人である男性と恋に落ちるし、物語の終盤には男性への愛がなんやかんやで発展して人類愛に昇華されて、人類のためにがんばってくれるのだ。

 一昔前であれば「女性主人公が男性を差し置いて活躍する」だけでも「フェミニズム的な作品」とお墨付きをもらえたかもしれないが、現代では「フェミニズム的な作品」と認められるための基準は厳しくなっている。そして、『ワンダーウーマン』は様々な点で現代のフェミニズム的基準に落第しているのだ。まず、ワンダーウーマンは本人の信念としては戦争を否定しているのだが、「軍隊」といういかにも男性的っぽくて家父長制っぽいイメージのある存在に協力してしまっている*3。母性やケア役割のイメージが強い、ワンダーウーマン本人のキャラクター性もジェンダー的なステレオタイプや性別役割分業を肯定している感じがしてよろしくない。そして、男性との恋愛…つまり「異性愛」が強調された物語であることも、フェミニズムジェンダー的にはマイナスである。なによりも、物語においてワンダーウーマンは終始「他人のため」に行動している。だが、有史以来、女性は父や夫や息子などの男性という「他人」のために奉仕することを強制されてきたのであり、女性は他人ではなく自分のためにこそ行動するべきであるのだ…。

 

キャプテン・マーベル』は、様々な点で『ワンダーウーマン』とは対極的な先品になっている。物語の序盤においてはキャプテン・マーベル帝国主義的な侵略外交を行なっている異星人国家の軍隊の一員として行動しているが、それはキャプテン・マーベルが騙されていて利用されていたからであり、物語の後半ではキャプテン・マーベル帝国主義に対して明確に立ち向かって帝国主義を否定する*4キャプテン・マーベルの仲間たちには男性もいるが彼女が彼らと恋に落ちることはないし、女性軍人たちとの「シスターフッド」的なものもさらっと描かれている。そして、『キャプテン・マーベル』の最大の特徴は、キャプテン・マーベル異性愛や人類愛などではなく「自分のため」に行動していることが強調されている点だ。他人のために愛想を良くして笑ってあげるということもしないキャプテン・マーベルジェンダー的なステレオタイプを明白に否定していると言えるだろう*5。そして、『キャプテン・マーベル』のなかでもフェミニズム的な理由から特に喝采されたシーンが、敵役であるジュード・ロウを倒した後に「I have nothing to prove. お前に認めてもらう必要なんてない」というセリフを言い放つ場面だ。女性は他人(男性)に対して自分の能力や自分の存在意義を証明しなくても自分が自分であるだけで肯定されるべき、といった感じの、いかにも最近のフェミニズムっぽいメッセージがこのセリフには込められているのである。

 

 これがヒーローが主人公ではない通常の映画、たとえば女性主人公が社会人としてどこかの企業だか業界だかでがんばったりする映画とか、軍隊とか政治とかの男社会において偏見や抑圧にめげずに立ち向かったりする映画であれば、キャプテン・マーベル的な主人公はありふれているし、その方がその作品のコンセプトやメッセージとも合致するだろう。逆に、ワンダー・ウーマン的な女性を主人公に据えることは、よっぽどの理由や戦略がない限りは悪手である。女性主人公は他人のためではなく自分のためにがんばる方が現代の映画の潮流に合致しているし、ジェンダー的なステレオタイプに沿ってしまっている女性を主人公にすることには作劇的なリスクが生じるのだ。

 

 しかし、ことが「ヒーロー映画」となると、話は別だ。端的に言ってしまうと、キャプテン・マーベルにはスーパーヒーローとしての魅力が存在しない。なぜなら、スーパーヒーローというものは「他人のため」にがんばるべき存在だからである。…実際には劇中のストーリーとしてはキャプテン・マーベルも侵略される側である弱小異星人などの「他人のため」に戦っている面もあるのだが、作劇や演出としてはその点はあまり強調されない。そして、女性へのエンパワメント的なメッセージを全面に出すという都合からか、彼女が「自分のため」に戦っていることが強調されているのである。

 自分のことばっかり考えていた有能ではあるが傲慢な人物が何かの事件をきっかけに責任感や使命感や他者への愛などに目覚めて、自分の能力を他人のために使うようになる…というのはヒーローのオリジンものとしては典型的な作劇であるが、この作劇が多用されているのは、主人公であるヒーローに対して観客に好感を抱かせるのに効果的であるからだ。また、一見するとより強大な能力を持っている悪人に対してヒーローが打ち勝つ展開の理由付けとして、「悪人は自分のために力を振るっていたのに対してヒーローは他人のために本来自分が持っているもの以上の力を発揮できた」という風になることはよくある。これはこれで陳腐な展開になってしまうリスクは存在するが、一方で説得力やカタルシスをもたらしてくれる場合も多い。…とにかく、ヒーローものの「王道」とは他人のために戦うことであるのだ。

 

  現代のフェミニズムが女性をエンパワメントするメッセージを放とうとすると、女性に対して「自分のため」やせいぜいが「女性同士の連帯のため」に呼びかけることができない。そして、このメッセージは、主人公が不特定多数のために行動することが求められるヒーロー映画とは水と油なのである。

 

「他人のためにばかり戦っていたヒーローが疲れや虚しさを感じて、自分の人生について考えなおす」というストーリーにもそれはそれで面白さがあるが、このストーリーは2作目とか3作目とかでやることであり、オリジンである1作目でやることではない。『デッドプール』のように正義感や責任感のかけらもないワガママで独善的なヒーローも存在するが、彼のようなヒーローは「邪道」な存在であることが作中で明白にされており、作り手も自分が邪道な作品を作っていることについて意識的である*6。しかし『キャプテン・マーベル』は邪道ではなく王道を狙っている作品であり、キャプテン・マーベルの性格や行動も基本的には「是」として描かれているのだ。

キャプテン・マーベル』と同じく「ポリコレ」が強調されている作品としては『ブラックパンサー』が思い浮かぶが、あの先品では主人公であるブラックパンサーが王族としての使命感や責任感から他人のために闘っていることが強調されていた。そして、フェミニズム映画としては落第点である『ワンダーウーマン』がヒーロー映画としては魅力的であった理由も、『キャプテン・マーベル』の問題を裏返すことで、より深く理解できるようになるだろう。

*1:DC映画に関しては、『ワンダーウーマン』や『シャザム!』はオリジンものでありながら楽しませてくれる工夫が多数なされており、私は高く評価している。『マン・オブ・スティール』はつまらなかったし、『アクアマン』に関しても内容がとっちらかっていて世間で言われているほど面白くはないと思った。

*2:なお、私がマーベル映画のオリジンもののなかで最も高く評価しているのは『アントマン』であり、次点が『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』だ。『スパイーダマン:ホームカミング』も面白かったが、オリジンものと言うには無理があるかもしれない。

*3:軍隊とか戦争とか帝国主義とか資本主義とかを「家父長制」に結び付けて連想ゲーム的に否定することは、フェミニズム批評とかではよくあることだ。

*4:帝国主義といえば家父長制なので、帝国主義を否定するということは男性社会を否定するということになるのだ。

*5:

front-row.jp

*6:実際には『デッドプール』の映画シリーズでもデッドプールは他人のために行動することが多く、そこが面白さにつながっていたりするのだが。

『ブルー・ジャスミン』:幸福になれないアメリカ人

 

ブルージャスミン(字幕版)

ブルージャスミン(字幕版)

  • 発売日: 2014/10/24
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 アメリカ人という人たちは、生活に要求する「最低限」の閾値がとにかく高い。贅沢が当たり前になっているのであり、他人に対する見栄という要素も強い。特に顕著なのが「住」に対する意識であり、アメリカ人は広い家に住みたがる。日本のように四畳半アパートで一人暮らしすることやマンションで家族暮らしすることは、アメリカ人には考えられないのだ。また、アメリカ人たちはどう見ても他の人たちよりも「結婚」や「家庭」に対する理想が高い。離婚率が高いのも理想の高さの裏返しだ。そして何と言ってもプライドが高く、自分がボロ家に住んでいることや失敗した結婚をしていること自体だけでなく、それに対する他人の目線が許せないのだ。これは単なる偏見ではなく、実際にアメリカ人の家庭に育った私が家族や知人を観察して肌身に感じてきたことである。

「幸福」に関する心理学や社会科学の研究もアメリカで特に盛んであるが、それらを見てみると、実際にはデカい屋敷のような物的な財産は幸福にはさして寄与しないことが示されている。他人の視線に振り回されることは不幸に直結しているし、完璧な結婚や家庭なんて存在するわけがないのだから今の状態にどう折り合いをつけるかの方が大切だ。幸福研究の世界では外的な要素ではなく内的な要素を重視するストア派の生き方が再発見されているのだが、典型的なアメリカ人の考え方はまさにストア派とは正反対のものであるのだ。

 そして、ハリウッド映画を見てみると、誤った「幸福」を追い求めるがゆえに不幸になる登場人物たちがごまんと出てくる。彼らが大金を稼げるチャンスもあるがリスクも大きいミッションに参加したり、撃たれたり殺されたりの裏社会で危険な橋をわたったりする理由をよくよく見てみると、彼らが分不相応にも購入してしまった大きな屋敷を維持したり築いてしまった家族たちに人並み以上の生活をさせたりするために金が必要だからであったりする。逆に言えば、彼らが狭い家で我慢できたり子供を大学に進学させるのを諦めたりすることができてしまうと、多くのハリウッド映画が成立しなくなってしまうのだ。

 

『ブルー・ジャスミン』の主人公であるジャスミンも、分不相応な贅沢への望みと見栄に振り回されているという点では他の映画の主人公とたちと変わりはない。この映画の特徴は、そんなジャスミンを愚かな存在で皮肉たっぷりに描いていることだ。また、彼女は哀れではあるがとても好感が持てないような人物として描かれている(それでも、映画の終盤には観客たちもついついジャスミンに同情を抱くようにはなるのだが)。この映画のなかでジャスミンに幸福が訪れることはなく、彼女は最後まで不幸なまま映画が終わってしまう。

 そして、ジャスミンの妹であるジンジャーは姉とは対比的な存在である。彼女は世間体への見栄への興味があまりなく、決して稼ぎは良くないが愛情深い婚約者とともに幸福な生活を過ごしているのだ。物語の途中ではジンジャーもジャスミンにそそのかれてしまい危うく不幸になりそうになるが、あわやのところで自分の過ちに気付いて元のつつましいながらの幸福な生活に戻るのだ。

 

 お話としては起伏が少ないうえに爽快感もない映画であるのだが、登場人物たちの描写や会話がかなり巧い。気合の入った上質の作品特有の「格」みたいなものが感じられる。ウディ・アレンの映画は当たり外れが多いのだが、この作品は「当たり」である。

 

『パラサイト 半地下の家族』:「格差社会」を描くことには失敗していないか?

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『ジョーカー』と並んで、最近の「格差社会映画」ブームの代表的な作品だ。

 この映画は「寓話」的な作品であると言われることが多い。寓話であるということは、作品のテーマを鮮烈に描くために細部のリアリティはあえて捨象しているということだ。

 実際、この作品に対してリアリティの観点から文句を付けるのは野暮な行為であるように思える。たとえば、話の根幹となる、主人公の半地下一家が金持ち一家の使用人たちを追い出して取って代わって"寄生"していく過程にはリアリティは全くないが、ここに関してはリアリティを求めることは映画の邪魔になるし「そういうものだ」と受け入れるしかない。

 …しかし、この映画では、根幹には関わらない他のシーンでもディティールに違和感を抱かされて物語への没頭を妨げられることが多過ぎる。

 私が特に気になったのが、物語の「転」となる事象が発生する直前、主人公一家が金持ち一家の酒や食料を拝借して宴会をするシーンだ。「使用人が主人の酒や食料を盗み飲みしたり盗み食いする」ということはよくあることである。しかし、このシーンでは、盗み飲みしている酒や盗み食いしている食料の量があまりにも多過ぎる。見ていて気が気でなかった。四人いる主人公家族の誰か一人くらいも「これだけの量を飲んだり食べたりしたら、いくらなんでも主人にバレるに決まっている」と思うはずだ。…しかし、異常な量の酒や食料が消費されているにも関わらず、後の場面でもこの宴会のことが屋敷の主人たちにバレることはないのである。

 友人にこの違和感を話すと「屋敷の主人たちは相当な金持ち家族だから、酒や食料を大量に保管しており、あれくらいの量が減るくらいではバレないのだろう。たぶん、酒や食料の量を管理するという発想自体がないのだろう」と言われた。しかし、少なくとも私がこれまで関わってきた現実の"金持ち"のことを思い返すと、彼らは自分の資産の管理については庶民以上にきっかりしている。というか、資産管理を徹底しているからこそ金持ちになれるのだ。生まれながらの貴族だったり富豪だったりすれば話は別かもしれないが、たしかこの映画の金持ち一家の稼ぎ手である夫はベンチャー企業の社長であり、ベンチャー企業の社長なんてとりわけ金にうるさい人間である。そもそも格差社会の大きな原因は社長たちが庶民に金を出し渋っていること、つまり社長や金持ちがケチであることだ。…この映画では金持ち一家は「生来の富豪」であるか「立身出世した成金」であるかのどちらかも曖昧である(妻の方は富豪家庭出身、夫の方は立身出世タイプな印象を受けるが)。そして、格差社会をテーマにしているのなら、寓話であるにしても、金持ちの金持ち性の描写を曖昧にするのは悪手であるはずだ。

 貧乏人である主人公たち一家にしても、貧乏人にしては息子や娘に教養があり過ぎたりするように思える。また、父の「無計画が最高の計画だ」のセリフに代表されるように主人公たち一家が愚かな存在として描かれたり愚かな行動をする一方で、この映画のストーリー自体(特に序盤部分)は主人公たち一家に「有能さ」がないと成立しない。

 私は韓国の事情には詳しくないのでこれは的外れな批判になるかもしれないが、現代の世界各国におけるネオリベラリズム的な格差社会の問題は、規制緩和で資本主義がスムーズに動くことにより「有能」な人間はなんだかんだでそれなりに良い仕事に就けて一定以上の生活が担保される一方で、社会保障が失われることにより「無能」な人間は医療や教育へのアクセスが閉ざされてしまったり人権侵害レベルで惨めな生活を過ごしたりする、ということだ。だから、現代の格差社会を描くなら登場人物は「無能」でなければならないはずである。「有能な人物が能力を発揮して(途中までは)成功する」という構造自体が、ネオリベラリズムを批判する力を弱めてしまうものなのだ。この点に関しては、主人公が完全に無能な人物である『ジョーカー』の方がずっと考えて作られていたように思える。

 とはいえ、この映画がテーマとして描いているのは最近のネオリベ的な格差社会ではなくて、より古典的なタイプの「努力で補うことのできない富裕層と貧困層との断絶」であるかもしれない。有名な「匂い」に関する描写などは、この古典的なテーマを連想させる。だが、そうなると、金持ち一家の夫がキリキリ働く社長であるという設定はむしろ邪魔になってくるはずだ。

 こうやって考えていくと、「寓話」っぽい物語にすることで細部を曖昧にする手法には「ずるさ」みたいなものを感じてしまう。

 

 また、私がかなり気になったのは、とある場面で他の登場人物から姿を隠すために階段で待機していた主人公の家族3人がずっこけること、その間抜けな絵面、そして「ずっこけること」が物語の展開に大きく関わることだ。ハリウッド映画には見られない韓国映画の特徴のひとつが、登場人物が現実でもちょっと考えられないくらい間抜けな行動を脈絡なく行うことである。シリアスとコメディの境界が曖昧であることも韓国映画の特徴であるかもしれない。もちろんそれは一概に悪いことではないし、たとえば『哭声/コクソン』はホラー映画でありながらコメディシーンが急に挟まることで独特の面白さを出すことに成功していた。…だが、その面白さは、所詮は「イロモノ」としての面白さである。ハリウッド映画で登場人物が「ずっこけること」がそうそうないのは、製作陣がイロモノではなくちゃんとした映画としての面白さを真面目に追求しており、最低限のリアリティやシリアスさを捨てることをよしとしないからであろう。

 もちろんハリウッド映画的な面白さが全てではないし、映画の面白さは多様なものが存在した方がよいに決まっているのだ、この作品がハリウッド映画を差し置いてアカデミー作品賞を獲得することは勘弁してほしい。『パラサイト 半地下の家族』からは「寓話」や「イロモノ」であることへの開き直りを感じざるを得ないし、この作品が受賞してしまうとディティールや完成度にこだわった作品を制作した他の監督たちが可哀想だ。

「格差社会映画」の白々しさ

 

 ずっと昔のイラク戦争のころ、爆笑問題太田光がなにかのエッセイで、ベトナム戦争のあとにあれだけ反戦映画を製作したのに懲りずにまた戦争を起こして、そしてイラク戦争のあとにまたまた反戦映画が作られる、という状況について批判していた。該当のエッセイの文章を見つけ出すことはできなかったが、2017年のラジオで同様の発言をしていたようなので、ラジオの文字起こし記事から引用する。

 

sekasuu.com

 

太田光:(前略)…ワシントンの桜の木の話ってあるでしょ。お父ちゃんが大切にしていた桜の木の枝を折っちゃったわけだよ。折っちゃったけども、それを自分から、自ら反省して、名乗り出たって言ったら、怒られるどころか、逆に褒められたって。そんなことあるわけねぇじゃねぇかって。 

 


太田光:他で遊べって話じゃん。単なるそれだけの話なんですよ、日本人にしてみれば。それをずーっとやってんだ、アメリカは。

田中裕二:うん。

太田光:戦争やって…

田中裕二:反省して。

太田光反戦映画を作る。「申し訳ない。ダメでしたけど、本当は我々はこうです」って。で、また戦争をやる。ずっとベトナム戦争の時から、アイツら負けたことないから。 

 

太田光アメリカって国はね。それでハリウッドで「トランプこんなヤツでしょ」って言ってるけど、何言ってんだよ。アメリカ人がトランプを選んだんじゃねぇかって。「お前らの映画の効力、なんだったんだ?」って。恥じろよ、それを恥じろ!

田中裕二:はっはっはっ(笑)

太田光:お前ら、何そこでトランプ茶化して喜んでんだ。それで完結か?それでまたトランプがダメだって映画を作って、それで「こんな映画作りました。凄いでしょ?」って言うのか?「それで、軍備増強して、戦争をやるんだろ?」って。それしかないんですよ。 

 

 この太田の発言は、ハリウッドや映画業界、ひいてはエンタメ業界なりメディアなり全般の偽善なり矛盾なりを鋭く指摘しているような気がする。

 

 反戦映画は近年はさほどブームになっておらず、ちょっと前はフェミニズム映画やLGBT映画がブームになっていた。そして、最近では「格差社会映画」がブームだ。今年のアカデミー作品賞に『ジョーカー』と『パラサイト 半地下の家族』がノミネートされているのも、「格差社会を描く映画」の評価や需要が高まっているからだろう。

 しかし、「格差社会映画」やそれと類似カテゴリーである「反・資本主義映画」には、「反戦映画」以上の白々しさがつきまとう。

 反戦映画を作っている人たちや出演している人たちの大半はアメリカ軍とはあまり関係のない人たちであるし、ホワイトハウスなりアメリカ議会なりの意思決定に関与しているわけではないはずだ。そして、反戦の信念も多くの人たちが本心から抱いているだろう(というのも、現代のアメリカ社会において反戦の信念を抱くこと自体はそんなに大変なことではないからだ)。また、一部の作品を除いては、映画というメディアは普段から好戦的なメッセージを発しているわけでもない。だから、アメリカという「国」が戦争を起こしていること自体についてはその国の国民であったりその国の企業ではたらく映画関係者にも多少の責任はあるかもしれないが、その責任はさして重たいものではないように思える。

 

 だが、格差社会となると話は別だ。

 言うまでもなく、ハリウッドのメジャーな映画に出演できるスターたちの大半は大金持ちであるし、そういう映画を撮る監督やその他のスタッフたちも映画のコアに関わるメンバーであればあるほど金持ちであるだろう。そう言う連中が格差社会を描いたり資本主義の悲惨を描いたりする、まずこの時点で白々しい。

 しかし、それ以上に私が気になるのは、アメリカ映画というものは多かれ少なかれ格差を所与の前提としてた物語を描いていることだ。

「たまには人が死ななかったり爆発が起きなかったりする映画を観よう」と思ってヒューマンドラマや文学的な雰囲気のアメリカ映画を観ていて気付かされるのは、そのタイプのアメリカ映画はニューヨークが舞台であることがやたらと多いことだ。次点でカリフォルニアである。体感的にはニューヨークが7割、カリフォルニアが2割、その他の州が1割という感じだ。そして、ニューヨークが舞台にせよカリフォルニアが舞台にせよ、主人公をはじめとする登場人物は金持ちで恵まれていることが多い。たとえば「芸術っぽい」映画を観ようと思ったらまず主人公はニューヨークでそれなりに成功している芸術家であったり芸術家の関係者であったりして(つまり、金持ちでもあって)、デカい家にみんなで集まってデカいテーブルに並べられたおしゃれな皿に盛られた美味しそうな料理屋を食べて高価そうなワインを飲みながら会話をして、そのうち会話がこじれて揉めたり喧嘩になったり誰かが倒れたりする。また、芸術関係者でない登場人物たちも法律家であったり銀行家であったりと芸術家以上の金持ちである。学生の登場人物たちも大体はアイビーリーグとかのエリート校だ。そしてニューヨークのチケットが高価そうな演劇を見たり高価そうなレストランに行ったりする。肝心なのは、登場人物の着ている服装はもちろんのこと彼らが食べているものや彼らの背景にある建物や公園、登場人物の会話の内容から顔付きまで、すべてに「お洒落さ」や「センスの良さ」がまとわりついており、観客は映画の内容だけでなく「ニューヨークを舞台にした金持ちたちが登場人物の物語ならではのお洒落さやセンスの良さ」を求めてそれらの映画を観てしまうことである。

 ニューヨークやカリフォルニアが舞台ではない場合には「舞台が田舎であること」自体が映画の内容に大きく関わっている。田舎の温かみみたいなものが描かれる場合もたまにはあるが、多くの場合には、むしろ田舎は「脱出すべき場所」として描かれている。そこにいる登場人物は貧しいだけでなく愚かで保守的であり、主人公に敵対する者どもとして描かれているのだ。愚かで保守的な人たちに囲まれている中の数少ない理解者との友情なり恋愛なりが描かれたりすることも多いが。

 たとえばNetflixがここまで流行している理由は、なにしろ月々の料金が安くて、いちど料金を払ってしまえばそれ以降は金をかけずに無限に映画が観れることだろう。だから、貧しい人や田舎の人の多くもNetflixに入っているはずだ。しかし、Netflixって上質な映画を観ようとすると、先ほど述べたようにその大半は舞台がニューヨークで登場人物は金持ちだ。そういう映画をじゃぶじゃぶと浴びせられつづけていると自分のいる世界や自分の立場が否定されたような気がしてきてしまい、惨めにならないだろうか?私自身としても、そういう映画を観続けているとふと我に返って「なんでわざわざ金を払って金持ち共の恋愛やいざこざを観せられなきゃならないんだ…」と虚しくなることがある。

 

 ともかく、ニューヨークが舞台の芸術家兼金持ちたちの物語が成立するのは格差社会があってのことだ。アメリカ映画ではヒューマンドラマを描くことに関してはニューヨークの金持ちたちを「特殊」ではなくむしろ「基準」として描いてきており、他の州に住んでいる普通の人たちの物語をむしろ「特殊」なものとして描いてきていた。そして、普通の人たちが抱く都会や金持ちの憧れを商売のタネにしてきたのである。もし格差社会でなくなったらこれまでのようには作品を作れなくなるし、これまでのような商売もできなくなるだろう。

 この構造を考えると、たとえば以前にはニューヨークが舞台のお洒落な映画に出ていた俳優が急に泥臭い貧民を描いた格差社会映画に出演して、賞のスピーチなどで格差や資本主義についてのメッセージなどを語り出したとしても、「白々しい」という感想しか湧かなくなるものである。

 さらに、いまは格差社会映画が「ブーム」になっていることもポイントだ。ブームということは、そのうち過ぎ去るということだ。反戦映画の時の事例と同じく、あと数年もすればハリウッドは格差社会のことは忘れて、その時のブームになっている別のテーマの映画を作成しつつ相も変わらずニューヨークが舞台の金持ちたちの映画を作成しているに決まっているのだ。

 ハリウッドがいま「格差社会映画」に熱狂しているからといって、観客である私たちがそれに付き合う必要はない。むしろ冷水を浴びせるべきである。いま「格差社会」について物申している俳優なり監督なりの言葉をしっかり記憶して、数年後の彼らの言動と照らし合わせてやることも重要だろう。

『サイド・エフェクト』:後味の良い(!)悪女もの

 

サイド・エフェクト (字幕版)

サイド・エフェクト (字幕版)

  • 発売日: 2014/03/07
  • メディア: Prime Video
 

 

 先ほどの記事に続いてソダーバーグ監督の作品を紹介しよう。

 私は後味の悪い映画というものが何よりも嫌いで、そのために大半のホラーやブラックコメディ作品が嫌いであるし、また「悪女」もの作品も嫌いだ。人を騙したり殺したり人生を破滅させたりする悪人が出てくる作品というものは、基本的にはその悪人がやっつけられることで勧善懲悪が成立してすっきりすることを楽しむものであるのに、「悪女」ものでは悪人がやられてすっきりすることがほとんどない。男性陣が悪女にいいようにやられて、悪女は最後まで自分の計画が崩れず思い通りになることにほくそ笑む、というオチになることが多いからだ。『ゴーン・ガール』は途中で悪女がひどい目にあう点は良かったが、結局は悪女が勝って終わりなのでモヤモヤした。

 どうにも、「悪女」ものを楽しめる人たちと私とでは映画に求めるものが根本的に違うようだ。どうやら自分を男性社会の被害者としてアイデンティファイしている女性たちは悪女をヒーロー的な存在とみなして、普段は加害者である男性たちが悪女によって破滅することこそに勧善懲悪的な楽しみを見出しているようなのだ。また、男性の中にも「悪女」ものが好きな人たちがいるようだが、この人たちについては何を考えているのかさっぱり理解できない。ただのマゾヒスティックな性癖だと思う。

 また、今時のフェミニズム批評も「悪女」ものに「男性社会に対する女性の反撃」を見出して後押ししてしまうのである。たとえば『エクス・マキナ』はAIがテーマのSF作品でありつつ、「悪女」ものの変種であったが、この映画も最後は男性主人公が(女性型)AIのせいでひどい目にあってかわいそうだった。そして、とあるフェミニズム批評ではまさに「男性社会に対する女性の反撃」を見出して『エクス・マキナ』を褒めていて、私はムカっとさせられたのである。

「自分の属性や自分のアイデンティティにとって都合の良いお話」を楽しんでしまうという感覚はどんな属性やどんなアイデンティティにも付き物ではあるが、本来は、その感覚は決して高尚なものではない。むしろ批評や知性とは相反する感覚であろう。しかしフェミニズム批評はその感覚に「お墨付き」を与えてしまう点で反知性主義的で有害な面があるように思える。

 

 そして『サイド・エフェクト』でもルーニー・マーラーが「悪女」を演じるわけだが、なにしろ儚さを漂わせたミステリアスで美しい風貌をしているルーニー・マーラーなので、悪女を演じるといかにも手強そうな存在になる(あまりセクシーでエネルギッシュでパワフルな人が悪女を演じるとむしろ弱そうになるから不思議なものだ)。そして、ジュード・ロウをはじめとする男性陣や女性陣たちまでもが、ルーニー・マーラーの思い通りにされていく…。

 …されていくのだが、この映画の良いところは、後半にジュード・ロウの逆転劇が始まって最後にルーニー・マーラーをとっちめるところだ。そのとっちめ方もまさに「自業自得」「因果応報」という感じで古典的な勧善懲悪の爽快感がある。途中まで「また悪女の思い通りになるのか?」とハラハラさせられるからこそ、逆転の爽快感が際立つのである。

 

 この映画の面白さは、稀代の悪女である「美柳ちなみ」を敵役に据えた『逆転裁判3』の面白さにかなり近いものだ。そう言えば美柳ちなみもどことなくルーニー・マーラーに似ていなくもない。

 

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『コンテイジョン』:良質(?)なウイルスパニックもの

 

コンテイジョン (字幕版)

コンテイジョン (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 

 この映画は2011年に劇場で上映されたのを観に行って、あまり期待せずに観に行ったのだが当時はえらく感動してmixiで発表した「2011年年間ベスト映画」のトップ1にもあげた。しかし、当時仲の良かった映画好きの女の子に「今年は『コンテイジョン』が一番面白かった」と言ったら怪訝な顔をされて反応に困っていたし、最近になって別の友人からも「『コンテイジョン』を観たけど面白くなかった」と言われた。みんなのシネマレビューでも平均6点とかなり点数が低い。

 私は基本的に映画に対して辛口の評価をすることが多いので、人が褒めるていものを貶すことはあっても、人が貶しているものを褒めることは滅多にない。しかし、期せずしてというか『コンテイジョン』に関しては世間の評価が低い作品を褒める形になってしまい、自分のキャラクター的にもかなり「バツがわるい」気持ちになってしまった。

 だが、最近になって配信されていたのを改めて見返してみると、昔のような感動は抱けないにしても、やっぱり面白いなと思ってしまった。

 

 スティーブン・ソダーバーグ監督の映画は全体的にどの作品も「ソツがない」出来栄えであり、そのために平均的な打率は決して悪くないのだが、多くの人にとっては「グッとくるものがない」という視聴感になるようだ。実際、『コンテイジョン』は(当時の)他のウィルスパニックものに比べると「リアルさ」はあるのだが、だからといってリアルに徹しているわけでもなくいかにも映画的な作りのお話になっているし、かといって脚本にひねりがあるわけでもない。いちおう映画の最後の最後で時系列が遡る描写があり、これが「ひねり」になってはいるのだが、わざとらしいというかしょうもないタイプの「ひねり」ではある。

 要するに、技術的には特に見るべきところがない映画なのだ。

 しかし、私は『コンテイジョン』がかなり好きだし、他のソダーバーグ監督の映画もおおむね好きである。『コンテイジョン』の何がよいかというと、世界的なウィルス危機に立ち向かう人々の群像劇であり、ウィルス危機に立ち向かう人々の頑張りに共感できるところだ。この人々の頑張っている姿の描写も群像劇であること以外には工夫や特徴がなく、むしろ地味なのだが、この地味な「頑張り」の描写がやたらと心に響くのである。「人道」を守る人々の努力や使命感が伝わってきてグッとくるのだ。

 また、この映画のほぼ唯一の悪人が、ジュード・ロウ演じるデマをバラまくジャーナリストだ。影響力を考えるとこのジャーナリストのやっていることはかなり極悪なのだが、この悪人の描き方もサラっとしていて不愉快なものではないし、勧善懲悪的なオチにならないところも逆に後味がよかった。

 

 私としては、もっと映画の脚本の巧みさや監督の妙味なりみたいなテクニック的な面を重視して映画を観たいものなのだが、実際には人の感情や「人情」みたいなものが上手く描かれているかどうかと、「後味の良さ」の2点をかなり重視してしまう。あとは登場人物に共感できたかどうかもかなり重要だ。ともかく、どうしても感情を重視した鑑賞になってしまうのである。そして、その点からいうと『コンテイジョン』はかなり良かったのだ。