THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『ファミリー・ツリー』&『コネチカットにさよならを』:ダメなおっさんが主人公の文学的作品

 

ファミリー・ツリー (吹替版)

ファミリー・ツリー (吹替版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

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 並べて論じるような作品ではないかもしれないが、どちらも妻子を持つ(持っていた)おじさんが主役の、小説を原作として「文学的」な雰囲気の漂う映画だ。

ファミリー・ツリー』では、ハワイに暮らしており二人の娘を持つジョージー・クルーニーの妻が事故で昏睡状態になり目が覚めず、そしてジョージー・クルーニーは娘から妻が浮気されていたことを聞かされてショックを受けるが、妻の浮気相手を追跡したり親戚たちと関わったりしているうちに色々あって娘と向き合うことを決心する…というストーリーだ。『コネチカットにさよならを』は、妻に離婚されたベン・メンデルソーンが独り身の人生を開始しようとするがやりたいことも見つからずに空回りして、薬物依存で自立できないダメ息子や同じく薬物依存の知り合いの若者と関わっているうちに知り合いの若者が死んだりして、色々あって自分の人生を生きることを決心する…という感じのストーリーである。

 

 どちらの映画でも、主演のジョージー・クルーニーベン・メンデルソーンがかなり情けない立場のおっさんを演じていることが特徴だ。二人ともこれまでは仕事をして妻子を養ってきたのであるから決してダメ人間ではないのだが、妻や子供のとの向き合い方がヘタクソであるし、家庭に対する責任を放棄してきた人生の報いを受ける(そして再出発をする)というストーリーになっている。

 このタイプのストーリーは、(特に一人称の)小説であれば主人公の存在感や「ダメ度」が生々しすぎて、読んでいてキツいものになる可能性が高い。また、主人公の内面描写が言い訳がましくて鬱陶しいものになることも多いだろう。映画という表現形式の利点の一つは、登場人物の内面と観客との間に一定の距離が保たれることで、小説にありがちな「鬱陶しさ」を回避できることである。この利点は小説のような深い内面描写を通じた芸術性なり人間性の真実の描写なりが実現できないという難点にもなっているのだろう。しかし、俳優たちの演じるの人間ドラマを眺めるだけでも、色々と考えたり感じ入ったりすることはできるものなのだ。

 

 また、ダメなおっさんが主人公であってもそれを演じている俳優は容姿の整った美男であり、おっさんが主人公の小説に特有な気持ち悪さや近寄りがたさが中和される点も良いものである。特に『ファミリー・ツリー』でジョージー・クルーニーがドタバタと走ったりひょっこり顔を出して妻の浮気相手の家を覗くシーンはチャーミングで愉快だ。

 また、『ファミリー・ツリー』ではハワイが舞台になっており、劇中での能天気なハワイ音楽がBGMとなるのだが、話の深刻さを中和していてかなり良い効果を上げている。よく考えるとかなり嫌で救いのない深刻な物語なのだが、娘の彼氏役であるアホ青年などの脇役が清涼剤となるし、終わり方も前向きで爽快感がある。この独特の後味は他の映画ではちょっと味わえないものである。

 

コネチカットにさよならを』の登場人物たちは、主人公も脇役も、『ファミリー・ツリー』の登場人物たちに輪をかけてダメ人間である。酔っ払った主人公が元妻の家に侵入するシーンはギョッとなるし、主人公のダメ息子は顔付きのしまりのなさからして「ダメ人間」であることが伝わってすごい。また、主人公がおっさんでありながら未成熟で子供っぽい点を抱えているからこそ、知り合いの家の若者と打ち解けて心を通わせるようになることもポイントだ。ダメな人間たちの「ダメさ」を超えた「弱さ」が描かれているし、またその「弱さ」を持った人間たちならではの繊細さや優しさのようなものも描かれているのが特徴であるだろう。

 ベン・メンデルソーン自身もジョージー・クルーニーに比べて一段と「情けなさ」が漂うし、中年以上の男性では珍しいような繊細さや脆さを感じさせるような俳優である。『ウーナ 13歳の欲動』でルーニー・マーラーにあれこれと振り回される役柄もぴったりであった。

アカデミー作品賞ノミネート作品全作の感想を書いていくぞ!

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 めずらしいことに、今年のアカデミー作品賞ノミネート作品9作のうち日本で公開している7作は全て劇場やNetflixで視聴済みだ。せっかくなので各作品の感想や「アカデミー賞を取ってほしさ」などをサクッと書いてみよう。

 

『フォードvsフェラーリ』…感想記事をアップしている。映画作品としての面白さや「熱量」みたいなものはこの作品が一番だった。王道だが随所に光るものがあって飽きさせないストーリーと、豪華な俳優陣たちが噛み合っているのだ。ただし、どこかがとりわけ「新しい」ということもないのが難点だ。銀メダルや銅メダルがあるならそれには入賞してほしいが金メダルを取ってほしいとは思わない、というところである。

 

アイリッシュマン』…なにしろ3時間もあるうえに、これまでのスコセッシ作品に比べるとローテンポで地味な作品だ。その代わりに奥行きとか味わいみたいなものは増していたようである。映画好きの友人たちは「いくらNetflixで配信されているとはいえPCの小さな画面で3時間も観ていると絶対に集中できないから」という理由で映画館に観に行っていたが、それが正解であっただろう。私はPCの小さな画面で観ていたし途中で飽きてしまってアイロンとかかけたり料理とかしたりしながら観てしまったから決してちゃんと観たわけではない。そのためにきちんと批評できる立場ではないのだが、私を飽きさせる時点で大したことのない作品だとは言えよう。そして、この作品には『フォードvsフェラーリ』以上に「新しさ」が全く存在しないことが問題だ。スコセッシが監督してロバート・デ・ニーロが主演した作品がいまさらアカデミー賞を取ったところでテンションの上がる人間がいるだろうか?

 

ジョジョ・ラビット』…感想記事をアップしている。「泣きそうになる」という意味での感動はこの作品が一番だったし、劇場で見終わった後の高揚感もすごいものだった。ただし、感想記事でも書いたように「上手さ」が強調されすぎているところは気になるし、小細工を効かした小粒な作品という印象は否めないかもしれない。アカデミー賞を取ってくれれば個人的には嬉しいけれど、取れなくても仕方ないし文句は言えないなあ、という感じである。でもこの作品の「作家性」と「エンタメ性」の調和、「奇抜さ」と「王道」のバランス感覚はやっぱり見事なものだ。この作品がアカデミー賞を取ることで、同じように作家性のあるエンタメ映画が増えるようになったら嬉しいものである。

 

『ジョーカー』…ノミネート作品の中には明確にこの作品だけが一段と「レベルが低い」作品であることは間違いない。話題性はあるし名画になりそうな雰囲気はあるし主演俳優の演技がすごいことも疑いないのだが、しかし映画のレベルは低いのである。元ネタとなった『タクシードライバー』などの作品の印象が強過ぎて「新しさ」は感じられないし、「前半にフラストレーションを溜めて後半に爆発させる」というプロットでありながら後半の爆発部分が肩透かしで期待外れだったことも問題だ。さらに、「ジョーカー」というアメコミキャラクターで製作する必然性が感じられなかったのも難点である。もしもこの作品がアカデミー作品賞を受賞するとしたら「アメコミ映画がこんなに流行しているからそのうちアメコミ映画にアカデミー賞を受賞させなければならないけれど、いかにもアメコミな映画に受賞させるのは癪であるから、普通の映画っぽい雰囲気が強いこの作品に受賞させることでお茶を濁そう」という政治的な打算の結果に過ぎないであろう。

 

『マリッジ・ストーリー』…感想記事をアップしている。『ジョジョ・ラビット』と同じように「上手さ」や技巧がこれ見よがしな作品であるのだが、その技巧の使い方が扱われているテーマを表現するうえでかなりの効果を発揮しているので、文句のつけようもない。主演の男女二人の演技もすごいものである。最近はちょっと「映画離れ」を起こしていた私だが、この作品を観たことで映画熱が再燃して、監督のノア・バームバックの作品や主演のアダム・ドライバーの作品を観まくりだして連鎖的に他の作品もいっぱい観るようになって、観るだけでは飽き足らずこのブログを開設することにもなった。その功績だけでもアカデミー作品賞を受賞するにふさわしいであろう。

 

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』…2019年に日本で公開された映画の中では、文句なしにぶっちぎりに飛び抜けて面白いナンバーワンの映画だった。ここで感想を書くのは勿体無いので、感想は後日に改めて別の記事にて書く。この作品がアカデミー賞を受賞してくれても個人的には嬉しいのだが、『アイリッシュマン』ほどではないにせよ、こちらにも「いまさらタランティーノが受賞してテンション上がる奴がいるか?」という問題はある。しかし、タランティーノ作品の集大成というか、これまでのタランティーノ作品の中でもいちばんレベルが高い作品であることは間違いないので、そんな作品を完成させたご褒美として受賞するのもいいかもしれない。

 

『パラサイト 半地下の家族』…感想記事にも書いた通り、ケレン味のある代わりにテーマの描き方が中途半端で物語的にも疑問点の多い、「イロモノ枠」な映画に過ぎない。エンタメ性が高い点やオリジナリティを感じられる点では『ジョーカー』よりはずっとマシではあるのだが、それでも他の候補作に比べると明らかに格の落ちる作品だ。この作品が受賞するとしたら、「たまにはハリウッド以外の映画にも受賞させて話題を作ってやろう」という打算によるものでしかないだろう。

 

(番外)

『ストーリー・オブ・マイ・ライフ わたしの若草物語』…日本ではまだ劇場公開されていないのでまだ視聴していないのだが、『フランシス・ハ』が私にとっては人生ベスト級の作品なので、監督のグレタ・ガーウィグに対する期待度がすごい。友人も家族も予告編を見たところ「全然面白そうじゃないんだけど」と言っているし、正直に言うと私も『レディ・バード』はあまりハマらなかったのでこの作品にもハマらない可能性はあるのだが、しかし一見すると地味な印象があり大したことのなさそうなこの作品が作品賞にノミネートされているということは、地味な印象を超える「完成度」なりなんなりが秘められているというかもしれない。この作品が受賞したら、日本で劇場公開された後にはさぞや期待感を込めてワクワクしながら劇場まで行けることになるのであろう。なので、個人的にはこの作品が受賞することに一番期待している。

 

『1917 命をかけた伝令』…こちらも日本ではまだ劇場公開されていないので観ていない。ある意味では『若草物語』以上に予告編から話の内容が想像つきそうな映画であるというか、技術やスペクタルのすごさはすごそうだが個人的な感動を抱けたり人生ベスト級の作品にはならなさそうな雰囲気がある(『ダンケルク』と同じような作品というイメージだ)。しかし、実際には「上手さ」や「すごさ」を超えた感動がある先品かもしれないが、観ていないのでわからない。この作品がアカデミー作品賞を受賞することに対する私の気持ちはきわめてニュートラルなものだ。

「優しくない笑い」の面白さ(名作シットコム紹介(2):『となりのサインフェルド』)

 

 

 日本で有名なアメリカのシットコムといえば、みつ昔前なら『フルハウス』、ふた昔前なら『フレンズ』、ひと昔前なら『ビッグバン★セオリー』だろうか。今ではNetflixなどの配信サービス各社がそれぞれオリジナルのドラマ作品を配信していることもあり、代表的なシットコムを一つだけ選ぶことも難しくなっている状況であろう。

 しかし、シットコムの歴史のなかにおける金字塔が『となりのサインフェルド』であることは間違いない。日本ではあまり人気が出なかったらしく、TSUTAYAにもDVDはシーズン4までしか置いていなかった覚えがあるのだが(10年前の話だ)、1990年代のアメリカでは国民的人気を博した作品である。

 

 シットコム(シチュエーションコメディ)の特徴は、ほぼ全てのエピソードに出てくるメインの登場人物が数人存在すること、また、舞台もほとんど毎回同じであることである*1。同じ登場人物と同じ舞台を使いながらいかに毎回違ったエピソードを描いて観客を笑わせられるか、ということがポイントになるのだ。そして、基本的にはどのエピソードも一話完結であり、物語の縦軸や「来週はどうなるだろう」というヒキなどに頼る構成にはなっていないことも重要である。

 …とはいえ、『フレンズ』や『ビッグバン★セオリー』などが人気を博した理由は、そのコメディ要素の「笑える度」以上に、共感できるキャラクター性をした登場人物たちの魅力、そして「登場人物たちの間の恋愛関係がどうなるか?」という物語の縦軸に依っている部分があることは否定できない。『フレンズ』では特にロスとレイチェルの恋の行方が終盤のシーズンまで二転三転して視聴者の興味を引っ張っていた記憶があるし、昨日に紹介した『そりゃないぜ!?フレイジャー』でも序盤のシーズンではナイルズによるダフネへの片想いがポイントとなる。

 登場人物の恋愛に興味が行くのも、登場人物たちが魅力的であり、視聴者が登場人物たちに対して温かで前向きな気持ちが抱けるからだ。コメディ作品の中に恋愛要素を入れることには、恋愛に絡んだギャグやジョークを描けるようになるという利点もある(『そりゃないぜ!?フレイジャー』におけるナイルズの片想い描写は古典的だが笑えるものだ)。…しかし、視聴者が登場人物に対してあまり温かな気持ちを抱くことは、コメディ作品にとっては制約ともなり得る。というのも、登場人物をあまりに滑稽に描いたり、登場人物を突き放した描写をすることが難しくなってくるからだ。また、視聴者の気持ちが冷めてしまうことを避けるために、登場人物の傲慢さや愚かさを強調することも難しくなってしまう。

 

となりのサインフェルド』の特徴は、まず、恋愛要素がほぼ皆無であることだ。主人公であるジェリー・サインフェルドと紅一点のエレイン・ベネスは元カレ元カノの関係ではあるのだが、その設定が作中で強調されることはあまりないし、視聴者としても二人の恋愛を特に応援したくなるつくりにはなっていない。他の二人のメイン登場人物、ジョージ・コスタンザとコズモ・クレイマーがエレインと恋愛関係になることもない。

 

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サインフェルドとエレイン

 

 メインキャラクター4人の中で最も人気があるのは、間違いなくコズモ・クレイマーだろう。Wikipediaでも「クレイマーがジェリーの部屋に入って来たら客席から歓声があがる」と書かれているほどだ。ただし、クレイマーは思考回路も行動も突飛なものであり、理解不能な人物だ。共感が抱けるようなタイプのキャラクターではなく、トリックスター的な面白さを持ったキャラクターである。

 

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コズモ・クレイマー

 

 そして、『となりのサインフェルド』の面白さを最も象徴するキャラクターが、何と言ってもジョージ・コスタンザだ。ジョージは他のシットコム作品ではなかなか見受けられないような異様なキャラクター性をしている。まずチビでハゲでデブであり、現代風にいえば「キモくてカネのないおっさん」な見た目をしている。見た目だけでなく性格も相当に気持ち悪いものであり、見栄っ張りで嘘つきなうえに神経質でケチだ。その性格がゆえに恋愛もよく失敗するし、見栄や嘘が原因で仕事を失ったりしてしまうこともある。『となりのサインフェルド』の中ではサインフェルドやエレインの人格的な問題点が強調される場面や、彼らが(大概の場合は自業自得的な理由で)ひどい目にあってしまうが、ジョージの描写はそれに輪をかけたものであるのだ。視聴者はジョージのことを面白いと思うし、人格的に問題のある視聴者であれば自分とジョージの共通点を意識してしまってドキッとしてしまうかもしれないが、少なくとも共感や同情を抱きたくなる相手ではない。また、主人公であるサインフェルドも毒舌で嫌味な人間であり、彼に対しても素直に共感を抱けない視聴者は多いだろう。

 

 

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ジョージ・コスタンザ

 

 

 …つまり、キャラクターに対して視聴者が共感などの「温かな気持ち」を抱くことを期待しないかわりに、登場人物の欠点や滑稽な点を強調する、シニカルで毒のあるユーモアが『となりのサインフェルド』の持ち味なのだ。この面白さは、「登場人物に指を差してゲラゲラと嘲る」ような面白さとも表現できるかもしれない。

 毒のあるユーモアを主とする『となりのサインフェルド』は、いま日本で流行っているような人を傷付けない「優しい笑い」とは真逆の「優しくない笑い」を提供するドラマだ。そして、少なくとも私にとっては、登場人物への共感や恋愛模様への興味などを除いて「笑える度」だけで評価すると、数あるシットコムのなかでも『となりのサインフェルド』はぶっちぎりでトップである。

「優しい笑い」は今年になって日本で流行しだしたとはいえ、アメリカではしばらく前から「優しい笑い」がメインストリームになっているような気がする。たとえば、私がNetflixに加入してから観始めたシットコムの『ブルックリン・ナイン-ナイン』や『グッドプレイス』は、どちらも「愛すべき登場人物たち」による緩くて温かな笑いを強調した作品であったように思える。だが、はっきり言ってしまうと、上記の2作の「笑える度」はかなり低かった。登場人物が可愛らし過ぎてお行儀が良過ぎる作風がどうしても鼻についてしまうのだ。

 アメリカでも日本でも、「優しい笑い」が流行になりだした背景にはポリティカル・コレクトネスの影響が多かれ少なかれあるだろう。『となりのサインフェルド』ではサインフェルドとジョージはどちらもユダヤ系であり、ユダヤナチスをネタにした際どいが鋭いネタもたまに登場する。一方で、「ポリティカル・コレクトネス」が流行りだした90年代の作品ということもあって、一部のマイノリティの描き方が雑であったりポリコレを逆張り的に揶揄したネタが登場する回があることも確かだ。…だが、困ったことに、ポリコレを揶揄する回もやっぱり面白いのである。

 実際のところ、「優しい笑い」の革新性や高尚さをいくら述べたてられたところで、私たちは人に指を差して嘲るようなどぎつい「優しくない笑い」を望んでいることも確かなのである。たとえば松本人志に代表されるような「優しくない」芸人たちは、インターネット上では批判が目立つとはいえ、実際には世間では未だに圧倒的な支持を得ている(若い人たちも支持しているのだ)。お笑い好きの友人に聞いたところによると、芸人たちのラジオ番組ではどぎつい笑いがいまだに多いようだ。ゲーム実況者のなかにもかなり差別的でくだらない冗談を飛ばす人がいるが、視聴しているとついつい笑えてしまうものである。

 

 最近のシットコムやコメディの風潮に慣れてくると、「毒」や「冷たさ」をたっぷりと含んだ『となりのサインフェルド』が懐かしくなってしまう。実は日本では最近までAmazonプライムで配信されていたのだが、数ヶ月前に配信が打ち切られてしまった。Netflixがストリーミング権を獲得して2021年に配信開始されるそうだが、一年も待たされるのはたまったものではない。

 

*1:たまに遠くに出る"出張編"的なエピソードもあったりするが。

「虐げられた女性同士が連帯して男性社会に復讐する映画」を私が苦手とする理由

 

 

お嬢さん(字幕版)

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  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: Prime Video
 

 

 タイトル通り、「虐げられた女性同士が連帯して男性社会に復讐する映画」というものが世の中にはいくつか存在しており、私はそれが苦手だ。その理由は、端的に言ってしまうと、私が男性であり復讐する側の女性にあまり共感できず復讐される側の男性に同情してしまう、という面も否定できないかもしれない…。しかし、「女性同士が連帯して男性に復讐」系の物語には、それ特有の「安直さ」や審美的な欠点を感じることも多い。なんとか言語化してみよう。

 

 私がここで特に念頭に置いているのは、たとえば2016年の韓国映画『お嬢さん』であり、2019年のNetflixオリジナル映画『パーフェクション』である。この2作の内容はよく似ている…というか、はっきり言ってしまうと『パーフェクション』は劣化版『お嬢さん』だ。『お嬢さん』は物語の展開は先を読ませぬものであったし主役である女性たちの描写も脇役である男性たちの描写も気合が入っていたし、植民地支配を遠景とした異様な舞台設定やその状況下で行われる暴力の描写にも物語的な説得力があった。一方で『パーフェクション』は人物描写も設定もお粗末なものであるし、ケレン味が過ぎて品がなく、物語の展開にも工夫がなくて安直だ。『お嬢さん』には視聴する価値はあるが、『パーフェクション』にはわざわざ視聴する価値もない。

 とにかく、『お嬢さん』も『パーフェクション』も、映画全体の構造はよく似ている。まず、二人の女性を主人公としており、この二人はどちらも暴力的で変態的な男性から肉体的・精神的に性的暴力を振るわれている。二人の女性の立場は異なっており、映画の中では一見するとこの二人は敵対的な関係に立っているが、それは復讐相手である男性を騙すための策略で、実は二人は同性愛的な関係によって繋がっており共謀している。そして、なんやかんやで敵役である男性(たち)に対する復讐を成功させて、映画のラストシーンでは二人の女性が同性愛的な描写を行うシーンが映されることで女性たちの「勝利」が強調される…という構造である。

『お嬢さん』を劇場で観終わったとき、私はラストシーンからなんだか「ドヤ顔」みたいなものを感じてしまって、全体としては面白い映画であったのに視聴後にはかなり冷めた気持ちになってしまった。この冷めた後味は、量産的で安っぽい赤川次郎的なエンタメ小説を読んだりエンタメドラマを観たときに抱く後味と同じだ。つまり、複雑なプロットや独特なキャラクター描写を含んだ作品であるにも関わらず、作品の根本に存在する「安直さ」が最後に残ってしまうのである。

 そして、この「安直さ」の原因は、『お嬢さん』という作品がメインの観客として想定しているであろう「女性」たち…もっと言えば「男性社会に対して恨みを抱えていたり、フェミニズム的な観点から男性社会に対して批判意識を抱いている女性」たちが持っているであろう欲望に対してあまりに寄り添い過ぎており、彼女らの欲望に直接的に沿い過ぎた物語となっていることである。

『お嬢さん』の作中では二人の女性たちはかなり苛烈な目に遭わされており、登場人物の女性たちにとって決して都合の良い物語ではない。だが、観客である女性たちにとってはかなり都合の良い物語になっていることは否めない。女性たちは徹底的に抑圧された被害者として描かれており、(メインの)男性の登場人物は全て敵として描かれたうえで、女性同士の連帯によって男性社会に復讐するという物語の構造のなかでは、「女性」は無謬の存在となる。観客である女性たちは後ろめたい思いをなんら抱くことなく、普段から恨みや批判の対象としている男性たちがとっちめられる様子を見て、晴れ晴れとした気分で劇場を去ることができてしまうのだ。

 端的に言うと「その面白さって『スカッとジャパン』の面白さと一緒じゃない?」と言うことである*1

 

 映画であるのだからメイン層の観客の欲望に応えることは当然だろう、と思う人もいるかもしれない。しかし、実のところ、上質な物語とは対象である読者や観客たちの欲望を直接的に肯定することはしないものである。むしろ、物語を上質なものとしたり、物語を単なるエンタメやポルノから分け隔てる要素として*2、観客の欲望に対して「ずらし」や「はずし」をしたメッセージや結論を出したり、ときには観客の欲望をダイレクトに否定して居心地の悪さを与えることで価値観の転覆を試みたりすることがある。自分の持っている欲望を満たしたり、自分が元から抱いている価値観を肯定するメッセージばかりを求めたりすることは、物語を鑑賞する態度としては決して上等なものではない。そして、物語の作り手の側にも、なんらかの形で観客の欲望の裏をかくことが求められるというものである。

 

 クエンティン・タランティーノは「復讐もの」の映画を多数作っている。しかし、タランティーノの復讐作品には、『お嬢さん』には見受けられないような「ずらし」の工夫がなされている。「主人公が悪人に復讐する様子をみてスカッと痛快な気持ちになりたい」という観客の欲望が単純に肯定されているつくりにはなっていないのだ。

 たとえば『キル・ビル』では一人目の復讐対象である女性には子供がいることが描かれており、復讐の爽快感がさっそく削がれている。また、最後にして最大の復讐対象であるビルと主人公との間にも複雑な愛憎関係が描かれている。『イングロリアス・バスターズ』では、ユダヤ人女性であるショシャナ(ミミュー)は復讐を果たす瞬間に死んでしまうし、ショシャナの復讐に巻き込まれて主人公チームであるバスターズからも死人が出てしまうなど、物語のピークである復讐シーンでも単純に爽快感を抱くだけでは済まされないような作劇になっているのだ。「黒人奴隷による白人奴隷主に対する復讐劇」という物語である『ジャンゴ 繋がれざる者』にしても、最大の悪人であるレオナルド・ディカプリオが物語の途中でクリストフ・ヴァルツと相打ちになったり白人奴隷側に協力する狡猾な黒人が登場したりと、やはり「ずらし」が行われているのである。

 タランティーノに限らず、『ダーティ・ハリー』や『奴らを高く吊るせ!』などクリント・イーストウッドが主演する「復讐もの」でも、「復讐を成功させてスカッと爽やかに解決」とはいかず、復讐行為の苦々しさや虚しさを描いているのだ。最近では『ジョーカー』や『パラサイト』も一見すると「格差社会で虐げられた者が格差の上層にいる者に復讐を行う」という触れ込みのストーリーに見えるが、実際には、どちらもそう単純な作品ではなかったのである。

 さらに言うと、「実際に存在する属性の人々が、実際に存在する属性の人々に復讐する」という行為を肯定してしまう作品は、観客に影響を与えて実際の犯罪を誘発するリスクすらあるだろう*3。復讐を安直に肯定しない作劇をすることは、「復讐もの」を作る側にとっての責任感や矜持の表れとも言えるかもしれない。

 

 さて、「虐げられた女性同士が連帯して男性社会に復讐する映画」に話を戻すと、マイノリティである(とされている)女性によるマジョリティである(とされている)男性に対する復讐、という外見のために「文句の付けづらさ」が生じるのも厄介なところだ*4。さらに言えば、作品に込められているフェミニズム的なテーマやメッセージのために「この作品は評価されるべき」という圧力が生じてしまうのも面倒臭いところである。

 たとえば、私は『ハスラーズ』はまだ未見であるが、「『ハスラーズ』の怒り。オスカー候補から漏れた事実も物語と共振」という記事からは「映画はテーマやメッセージによって判断されて評価されるべきである」というイデオロギーを感じた(『ハスラーズ』がオスカー候補から漏れたのは作品や演者の質が他の作品や演者に及ばなかったからである、という最も検討すべき可能性を考慮することを頭から拒否した記事であるからだ)。

フェミニズム的なメッセージやテーマを描く作品は面白くならない」と主張するつもりはないが、『キャプテン・マーベル』の例のように、フェミニズム的なメッセージやテーマを入れることが作品の面白さの質を損なう事例があることはたしかだ。また、『お嬢さん』や『パーフェクション』のように「観客である女性たちの欲望を肯定すること」を狙うがあまりに深みや品性に欠けた作品になるリスクもある。

 そして、ここに「フェミニズム的なメッセージやテーマを描いた作品を批判することは許されず、肯定しなければならない」という圧力が加わると、結果としてフェミニズム的なメッセージやテーマを描く作品の質はどんどん下がり続けることになるだろう。「自分の求めるメッセージやテーマが描かれていれば満足」という人にはそれでもいいのだろうが、より上質な映画の数が増えることを望む映画好きの身としては、そんなのたまったものではないのである。

*1:ただし、私は『スカッとジャパン』を見たことはないので、この言い方がもしかしたら『スカッとジャパン』に対して不当なものではあるかもしれないが。

*2:こういう言い方自体が「エンタメ」や「ポルノ」に対する中傷と言われる可能性もあるが、それはおいておく。

*3:『お嬢さん』では女性たちは直接的な暴力を用いることはなく、男性たちを同士討ちさせる形で復讐を果たすと言う形になっているので、このリスクを回避できているとは言えるかもしれないが。

*4:『お嬢さん』に対してこうやって文句を付けている人も、私以外には見たことがない。

料理や映画について批評を"するべき"理由

 

 

 

 

 高校生の頃に実家で家族と『そりゃないぜ!?フレイジャー』を観ていたとき、とある何気ないシーンの印象が妙に強く、いまでも記憶に残っている。……とはいえ、私が『そりゃないぜ!?フレイジャー』を観ていたのもう10年以上も前の話である。日本語圏ではどの動画サイトでも『フレイジャー』は配信されていない。そのため、セリフの詳細は覚えておらず、確認することもできない。以下はあくまで「うろ覚え」に基づいたものであることは了承してほしい。

 該当のシーンは、嫌味で金持ちでインテリな精神科医の兄弟、フレイジャー・クレインとナイルズ・クレインが豪華なディナーを二人で食べてきた後の場面だ。家に帰った二人は、ディナーが美味しかったという話をしながらも、コース料理のなかの一品にあった些細な問題点についてあげつらう。そして、ナイルズが以下のようなセリフを言うのだ。

 

「最高のコース料理を食べた後には、コースの中のたった一つの欠点について語り合う…これこそが、最高のコース料理の中でも一番の喜びだね!」*1

 

 このセリフは作品的にも「嫌味」な人物として描かれているキャラクターが発するセリフだし、兄弟の会話を聞いていた庶民派の父親がうんざりした顔になる様子も映されている。そのため、作品的には必ずしも上記のセリフが「是」とされているわけではない。

 だが、このセリフは私にとっては印象に残り続けているし、はっきり言って気に入っている。セリフの詳細をきちんと覚えていたなら座右の銘にしたいくらいだ。というのも、このセリフは、「批評」という行為をすることの本質的な意義を表現しているように思えるからだ。

 

「食べ物や料理に対してどのような態度を取るべきか」ということについての考えと、「映画や漫画などのフィクションに対してどのような態度を取るべきか」ということについての考えは、多くの場合に一致するものだ。つまり、食事について批評的な態度を取らない人はフィクションについても批評的な態度を取らないことが多く、フィクションについて批評を行う人は食事についても批評を行うことが多い、ということである。…これは根拠なく言っているのではなく、30年間ほど生きてきた私の人間観察に基づいた主張である。一緒にご飯を食べに行った時に出された料理にあれこれと言い出す人は、一緒に映画を観に行った後にも映画の内容についてあれこれと言い出すことが多い。逆に、映画を観に行ったあとに作品について喋りあおうとしても話が盛り上がらないタイプの人は、食事に行った時にもだいたい何を出されても喜んで食べるだけの人である可能性が高いのだ。

 

 食事に関しては、日本の世間では「好き嫌いはいけない」「料理の味や質に文句を付けるのは品がないことだ」「何を出されても喜んで食べる人間が一番である」といった感じの規範が主流派であるようだ。そのため、料理や食事について肯定的な評価を示すことは支持されがちな一方で、批判的な評価を示すことにはその評価をした人の方が叩かれたりするリスクがある。

 サイゼリヤがやたらと神格化されたり、松屋で新メニューが発表されるたびに匿名掲示板やSNSで大騒ぎが起こるのも、食事に関しては肯定的な意見のみを是とする規範が背景にあるだろう。チェーン店の料理というものはある程度の質は担保されている一方でその質にはどうあがいても限界があるし、大味さや「何を食べても根本の味は毎回同じ」などの欠点もあるものだ。しかし、料理や食事についての欠点をあげつらうことは下品とされているし、個人店や家庭料理と比較してチェーン店の料理の問題点や欠点を指摘することは「野暮」とされる。そのために肯定的評価だけが出回ることになり、新メニューなり経営理念に関するエピソードなりの「話題」が多くなればなるほど肯定的評価のみが自動的に量産される、というメカニズムになっているのだ。

 …私にとっては、料理や食事についての否定的評価が許されない日本の世間の規範は馴染みのないものだ。というのも、私が育った家庭では、食事や料理について色々と批評をしたり文句を言うことがむしろ「是」とされていた。家庭内では料理をするのは基本的に父親の担当であったが、父は、自分の料理について私や他の家族が批判や意見を言うことをむしろ望んでいた。批判があった方が、次回以降により良い料理を作れるからである。

 また、家族で外食をするときにも、もしも店で出された料理に問題があったり期待外れのものであったり他の店に比較してレベルの低いものであったりした場合には、帰りの自動車の車内や家に帰った後などにも両親は容赦なく料理や店についての批判を言い続けていた。そして、期待以上の美味しい料理が出てきた場合にも、それこそフレイジャーとナイルズのように「ここの部分がこうなっていればさらに美味しい料理になっていたのに…」と「批評」を行なっていたものである。

 外食という行為には時間と金銭という対価が必要とされるものであり、もしもその時間と金銭に見合わない料理を出されたのなら、批判を行うことは当然の行為であるように思える*2。少なくとも、黙っていたままでいるよりかはスッキリするだろう。

 また、良かった料理についても「ここがこうであればよかったのに」と言い合うことも楽しいことだ。どんな外食や料理であってもそれが文句の一つも付けようのない「完璧」なものにはなり得ないだろうが、実際にあった外食や料理についての批判を行うことで完璧な外食や料理についての空想を具体的に行うことができて、現実には存在しない完璧な経験に間接的に触れることができるからだ。ポイントは、ある外食や料理について批判を行うこと自体は、必ずしもその外食や料理を経験することによって生じた楽しさを損なうものではないということだ。美味しい料理を食べる経験自体から生じる楽しさと、料理について批評をすることから生じる楽しさは両立や並存が可能なのである。

 

 思うに、特に日本では映画や漫画などのフィクションについても「批評」を行うことに対する拒否感が蔓延しているのは、「対象を経験すること自体から生じる楽しさ」と「対象について批評することに伴う楽しさ」の両立や並存が不可能である、という考えを多くの人が抱いてしまっているからだ。対象について批評をすることは、対象自体に内在している価値を損なってしまう行為である、という考え方が根強いのである。だから批評家は作品の価値を損なう存在と見なされて多くの人に嫌われている。自分の好きな作品に関する批評はたとえ肯定的なものであっても触れたくない、というスタンスの人も多いようだ。

 これは根拠のない私の邪推であるが、食事についての好き嫌いや批評が許されないという日本の世間の規範は、日本において作品批評に対する拒否感が根強く存在していることの一因になっているようであう。食事の好き嫌いや良し悪しを普段から口に出していて、さらに他人に対して説得力や共感を抱かせるように自分の好き嫌いや良し悪しの理由を分析して言語化している人は、本人も自覚していないうちに「批評」という行為に慣れることになる。批評に慣れているうちに、自分の主観的な判断とは別の客観的な良し悪しの基準の存在も理解するようになるし、自分の判断と客観的な基準との距離感のようなものについても考えていくようになる。そのために、食事のみならず、映画や漫画などのフィクション作品についても自然と批評を行うことができるようになるのだ。

 …一方で、食事について好き嫌いも言えない生き方をしてきた人は、自分の主観的な判断や感覚について他人に対して言語化する行為に慣れる機会をもてないのだ。そのために、たとえば映画を観た後には、その作品に対して肯定的な思いを持ってるにせよ否定的な思いを持っているにせよその思いを言語化することに対する自信のなさや拒否感のようなものが生じて、歯切れの悪い感想しか言えなくなるのである。

 また、批評を行えないタイプの人のなかには、批評を行えるタイプの人に対して逆恨みのような感情を抱いている人も多い。おそらく、自分が言語化できない思いを抱えている隣で相手がすらすらと自分の感想を述べていることに対する嫉妬がある。さらには、客観的な評価基準などを用いながら作品を分析されてその内容や構造についての良し悪しを語られることに対して、作品を解体されて台無しにされるような気持ちを抱いてしまうし、「自分がその作品を楽しんだ経験」にもミソをつけられるような気持ちになってしまうのだ。

 

 しかし、繰り返しになるが、作品自体の価値や作品を鑑賞することによって生じる楽しさと、作品を批評することの価値や批評をことによって生じる楽しさは別物なのだな。すごく面白い作品を観てその面白さについてたっぷりと楽しんだ後には、「この作品がここがこうなれば更に面白くなるのに…」と完璧な作品を空想することでまた別の楽しさを味わうことができるのだ。さらに、ある作品の良し悪しについて分析して理解を深めることは、別の作品の良さや悪さについての理解を深めることにもつながる。批評という行為を行うことによって、そうでなければ存在することにも気付かなかったような価値や面白さも見出せるようになるものである。

 作品についての批評を拒否する人のなかには「作品を批評する連中と違って、作品そのものをありのままに楽しんでいる自分の方がより多くの楽しみを得ている」と考えている人もいるようだ。しかし、実際には、批評を行なった方がより多くの楽しみを得られるようになるのである。だから、映画を見たり料理を食べたりした後には対象について批評を行える人間になった方が、本人にとっても得なのだ。これこそが批評をするべき理由である。

 

*1:正直に言うとセリフの詳細は記憶していない。締めのセリフは「最高のデザートだね!」とかそんなものだったかもしれない。

*2:その批判を料理人や店に対して伝えるかどうかは別の問題だ。

名作シットコム紹介(1):『そりゃないぜ!?フレイジャー』

 

 

 高校生の頃、『Frasier』というシットコムを毎晩のように家族と観ていた時期があった。アメリカでは11シーズンまで放映されていたらしいのだが、日本ではさほど人気が出なかったらしく、シーズン3までのDVDが出たところで打ち切りになっている(邦題は『そりゃないぜ!? フレイジャー』と、なんともダサいものにされてしまっている)。

フレイジャー』は『チアーズ』という別のシットコム作品のスピンオフであり、『チアーズ』の人気キャラクターであった精神科医フレイジャー・クレインが主人公だ。他のメインの登場人物は、フレイジャーの弟であり同じく精神科医のナイルズ、フレイジャー兄弟の父親であり元警官のマーティン、マーティンの介護ヘルパーのダフネ・ムーン、ラジオ番組プロデューサーのリズ・ドイル、そしてマーティンの愛犬であるジャック・ラッセル・テリアのエディだ。

 このドラマの特徴は、フレイジャーとナイルズ兄弟と、マーティンやダフネなどのその他の登場人物を対比的に描くすることで様々なストーリーやジョークを成立させていることだ。その対比とは、精神科医という職業に象徴されるようなインテリで金持ちで知識人な「上流階級」性と、警官や介護ヘルパーなどの職業に代表されるような「庶民」せいである。そして、視聴者の大半が庶民であることが想定されるテレビドラマであるので、基本的には前者の人々が滑稽に描かれることになる。

 普通、メインの登場人物が数人しかいないシットコムでは、登場人物それぞれに全く異なるキャラクター性を付与するものだ。しかし、『フレイジャー』ではフレイジャーとナイルズが多くの点で同様のキャラクター性を持っていることもポイントだ(二人とも嫌味であったり神経質であったりするのだが、ナイルズの方がフレイジャーよりもさらに極端にその特徴を持っている、という感じである)。二人はよく気が合ってあれこれと文句を付けたり批評を始めたりするのだが、これにより二人の嫌味なキャラクター性がさらに強調される、という効果が出ている。

 

フレイジャー』が日本語の文献で言及されているところはほとんど見たことがないが、カナダの哲学者であるジョセフ・ヒースの著書『啓蒙思想2.0』では、2ページ近くにわたって『フレイジャー』が批判されている箇所がある。長くなるが引用してみよう。

 

アメリカの)民主党が陥っている状況はべつだん彼らだけのことではない。どこにでもいる知識人やインテリの直面しているジレンマだ。中心にある問題をとてもうまく描いていたのが、九〇年代のテレビドラマ『フレイジャー』だ。ご存じでない読者に説明すると、要するに普通の人が賢い人をどう思っているかを徹底的に描き出した長期シリーズのコメディである。この番組はうわべは反インテリだが、根はかなりイデオロギー的でもあった(制作総指揮者で主演のケルシー・グラマーが政治に熱心な極右の共和党支持者なのは偶然ではない)。ドラマは、二人の主要キャラクター、フレイジャー・クレイン医師と弟のナイルズ医師と、三人の「普通の人々」……退職警官である父親、ヘルパー、フレイジャーのラジオ番組の担当プロデューサー……との対比で展開していく。兄弟二人はおそらくハーヴァード卒の精神科医なのだが、つまるところ道化者だった。十一年にわたるシリーズで一度たりとも問題を解決するとか、ちょっとでも気の利いたことをするために優秀なはずの知能を使うことがない。「知性」と教育から得たのは、難しい言葉を使う癖、もったいぶった趣味と非常識さに過ぎなかった。

(中略)

常識保守主義イデオロギーは、ほとんど隠されもせずシリーズ全編に流れていた。初期の保守派が知識人を信用しなかったのは知識人が危険だと思ったからだが、知識人の問題は本当は頭がよくないことだと『フレイジャー』は示唆している。

(p.309-310)

 

 ヒースによるこの『フレイジャー』評には的を得ている面もあるが、『フレイジャー』が単なる「反インテリ」的な作品であるという印象を読者に抱かせる点はアンフェアだ。

 おそらく『フレイジャー』で最も人気のあるキャラクターは、フレイジャー以上に嫌味でインテリぶっているナイルズ医師であり、彼が人気になるのは他のキャラクター描写以上にナイルズのキャラクター描写に熱がこもっているからである。ナイルズは嫌味で神経質でありながらも愛すべき魅力的なキャラクターとして描かれているし、すくなくとも前半のシーズンではナイルズとダフネの恋の行方に視聴者の興味が惹き寄せられる。逆に、マーティンやダフネなどの「庶民」サイドの描写はフレイジャーやナイルズの描写に比べるとちょっと書き割り的な印象があるくらいだ。

 たとえば、大学教授である私の父親は『フレイジャー』を毎晩楽しみにしていた。インテリが滑稽に描かれている作品ではあるが、自虐的な面白さがあるぶん、インテリの方がより楽しめる作品であると言えるかもしれない。

 

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フレイジャー・クレイン

 

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ナイルズ・クレイン

 

『フォードvsフェラーリ』:豪華な俳優陣による古き良きな大作映画

 

フォードvsフェラーリ (オリジナル・サウンドトラック)

フォードvsフェラーリ (オリジナル・サウンドトラック)

  • 発売日: 2019/11/15
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

 

 2020年になって公開された映画のなかでは現時点で個人的に最も感動したのは『ジョジョ・ラビット』であるが、客観的な「面白さ」や「出来栄えの良さ」が一番であると感じたのは『フォードvsフェラーリ』だ*1

 なにしろマット・デイモンクリスチャン・ベールを始めとする役者陣の豪華さがこの映画の肝だ。レースシーンを除けば画面の構成はわりと普通であり、登場人物の顔がアップになりながら会話したり怒鳴りあったりするシーンが多いのだが、俳優が豪華であればただの会話シーンも豪華になるものである。職人肌でエキセントリックなレーサーを演じているクリスチャン・ベールも良いのだが、本人自身も頑固者でありながら頑固な男同士の交渉や調整などの複雑な仕事もこなさなければならないマット・デイモンの方はさらに見る価値がある。脇役であるフォード社の社長や役員たち、フェラーリ社の社長など、誰も彼もが濃くて「圧」のある顔面をしているのだが、1960年代後半の「男の世界」を舞台とした作品の設定とマッチしている。

 映画の作風やテンポ感も、古き良き「男の世界」系の映画を意識したような作りだ。一方で、カトリーナ・バルフが演じるクリスチャン・ベールの妻役は「亭主を支える良い女房」という古臭い役柄でありながらも存在感や本人の人格がちゃんと発揮される描き方になっており、ここら辺には現代的なセンスもきちんと感じられた。

 この映画のいちばんメインとなるのはもちろんレースシーンであるのだが、中盤の、マット・デイモンクリスチャン・ベールが殴り合って取っ組み合いするシーンもかなり楽しい。「男同士が揉めるけど殴り合って解決して爽やかに仲直り」というシーン自体が、1960年代くらいを舞台にしないと陳腐で描けないものだ。

 

(私は未見だが)この映画と同様にル・マンレースを題材にした映画として1971年の『栄光のル・マン』という映画があるらしく、クリスチャン・ベールの演技は『栄光のル・マン』主演のスティーブ・マックイーンの演技にあえて寄せたものであるようだ。私がむしろ思い出したのは『大脱走』である。『大脱走』とこの映画の内容自体には何の関連性もないのだが、熱くむさ苦しい男たちが大量に出てくる熱血物語、そして2時間半や3時間近くという上映時間の長さに見合う面白さの込もった「大作」としての貫禄が共通しているのだ。

 逆に言えば、昔ながらの大作や名作を現代に甦らせたということであって、この映画自体のオリジナリティや新鮮さ、批評性みたいなものは希薄かもしれない。しかし、何も全ての映画がオリジナリティや批評性を追い求める必要はないし、これほどの「大作」には近年では滅多に出会うことはない*2。正月映画として見るなら特に最善の選択肢であっただろう。

*1:2019年公開の作品ではあるが、『マリッジ・ストーリー』も『フォードvsフェラーリ』並に出来栄えが良かった。

*2:昨年の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』もすごかったが。