THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『シンデレラ』+『ワインは期待と現実の味』+『ボーダー 二つの世界』+『ラスト・アクション・ヒーロー』+『セルラー』+『女王陛下の007』

●『シンデレラ』

 

 

シンデレラ

シンデレラ

  • カミラ・カベロ
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 ノリの良さとお気軽さに振り切った、バカバカしいけど楽しい感じのミュージカル作品。ファンタジー世界でありながらジャネット・ジャクソンやクイーンやマドンナなどのロックミュージックが堂々と流れるし、登場人物たちは服も肌の色もカラフルで血色も良くてノリもやたらと現代的だ。 

 とはいえ、ノリが軽いのはいいけれど、楽曲もダンスもゆるくてイマイチ記憶に残らないのは困りもの。『ラ・ラ・ランド』どころか『イン・ザ・ハイツ』にもずっと踊っている。登場人物たちも、イディナ・メンゼル演じる継母とビリー・ポーター演じるファビュラス・ゴッドマザーは魅力的だし、 タッラー・グリーヴ演じるグウェン皇女も可愛らしいが、肝心のシンデレラ(カミラ・カペロ)と王子(ニコラス・ガリツィン)が役者の問題のために全く存在感がなく魅力に欠けている。特にシンデレラは魔法に変えられて変身した後にも髪型が重たく野暮ったいままで、せっかく彼女がデザインを考えた設定のドレスも無駄になっている(ところで主人公たちがラテン系というところも、ヒロインが服装デザイナーというところも、『イン・ザ・ハイツ』と被っているな)。

 

●『ワインは期待と現実の味』

 

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 だいぶ前に観た映画だけど忘れないうちに感想をメモしておく。

 ワインソムリエを目指す黒人青年が主人公の話だが、邦題通りに「現実」がのしかかる、サクセスストーリーとまではいかないほろ苦いストーリーだ。そもそもソムリエ試験は現実でもべらぼうに難しいものなので、周囲の協力もそこまで得られていない主人公が成功しないという展開にはリアリティがある。また、ブラック・ムービーであるということから、安直なサクセスストーリーやファンタジーではなく「現実」の厳しさや重苦しさを描かなければ、という問題意識みたいなものもあるだろう。白人によるハイカルチャーでハイセンスな「ワイン」とローカルチャーで土着的で黒人文化に根ざした「バーベキュー」という対比もいいし、その二つが安直に和解しないところも逆に新鮮だ。

 ま、とはいえ、映画としてはあまり面白くなかった。

 

●『ボーダー 二つの世界』

 

 

 

 同じく、だいぶ前に観た映画。同じ原作者による『ぼくのエリ 200歳の少女』はかなり好きな映画であるから期待していたのだが、こちらはダメだった。

 ルッキズムなりセクシズムなりを否定するという問題意識を前提としているようであり、主人公や相手型の男性の造形をわざと醜くして、醜い二人による目を背けたくなるような性交シーンを描いて、他にも視覚的にグロいシーンがいくつか登場する。というわけで観客の不快感や生理的嫌悪感を刺激することについては並のホラー映画よりもずっと性交しているが、それが作品の面白さにつながっているかどうかは別の話。そして、「ルッキズムなりセクシズムなりを否定するという問題意識」という高尚なお題目が露骨であるために、不快であるだけでなく偉そうでうざったらしい作品でもあった。いかにも批評家が好みそうな作品であるというか、批評的な人を狙い撃ちにした作品であるんだろうけれど、まんまと狙い通りに撃たれてしまう批評家に存在価値ってあるのかと思ってしまう。

 

●『ラスト・アクション・ヒーロー

 

 

 

 オースティン・オブライエン演じる主人公の少年がひょんなことから手に入れた「魔法のチケット」の力によりアーノルド・シュワルツェネッガー主演のアクションヒーロー映画、「ジャック・スレイター」の世界に入り込み、ジャックと交流を深めるも、今度は「魔法のチケット」を手にした映画世界の悪役のほうが現実世界に出てきてしまって…。

 

 小学生の時に観て以来なのでなつかしくなってNetflixで見かけたときに20年以上ぶりに視聴してみたのだが、改めて見ると『フリー・ガイ』と共通するところが多い作品だ(実際に、脚本などのスタッフが一部共通しているらしい)。『フリー・ガイ』と比べると時代的な制約もあってかメタフィクションや「物語」をテーマにした作品としての作り込みはかなり甘く、無難な「映画あるあるネタ」やパロディネタとカメオ出演に終始している感は否めない。しかし、美女しか存在しないロサンゼルスの世界で気軽に女性をゲットできていたジャック・スレーターが現実世界にきて「はじめて女性とじっくりと話せた」と喜んだり、初めて聴いたクラシック音楽に感慨を抱くシーンなどにはなかなかの批評性が感じられて印象的。前半における「ジャック・スレイター」世界の描写はそこそこで済ませて、彼が現実世界を訪れてからの変化などに尺を割いた方が作品としてのクオリティは高くなっていたかもしれない。

 せっかく悪役が「魔法のチケット」を悪用して他の映画世界から応援を頼むのに、追加されるヴィランは悪役と同じく「ジャック・スレーター」シリーズからのキャラクター、つまり映画内映画のキャラクターであるというところはがっかりというか物足りない。ここはファンタジーやホラーなどの作風や世界観がまったく異なる映画から呼び出したうえで「アクション・ヒーロー」と対峙させるべきだろう。悪役が口にしていた通りキング・コングやドラキュラでも呼び出してほしかったところ(最後に『第七の封印』から抜け出してきた死神が訪れるシーンには緊張感があるけれど)。ジャック・スレイターとアーノルド・シュワルツェネッガーの対面シーンも短くて充分ではない。とはいえ、主人公の少年の成長や活躍も描かなければいけないという点も考慮すると、尺が足りないという問題もわかるんだけれど……。

 

『フリー・ガイ』もよかったけれど、この映画そのものを現代風にリメイクしてもかなり面白くなりそうなところだ。ただし、アーノルド・シュワルツェネッガーに比肩するほどの存在感とカリスマ性のあるアクション俳優が存在しない、というところが最大のネックとなるだろうか(昔に比べると、現代はアクション俳優が乱立している時代だ)。ジェイソン・ステイサムはちょっと親近感が抱けなさすぎるので、ドウェイン・ジョンソンあたりが落としどころになるだろうか。

 

●『セルラー

 

 

 

 

 キム・ベイシンガーが主役っぽく見えるパッケージだけれど、どう考えてもクリス・エヴァンスのほうが主役。たまたま自分にかかってきた発信元不明の謎の電話で「監禁されているの」と助けを求める女性のことを最初は疑うがすぐに信じてしまい、彼女を助けるために身体を張ってジェイソン・ステイサム率いる悪徳警官グループと戦う栗エヴァの姿にはキャプテン・アメリカの片鱗がうかがえる。とはいえキャプテン・アメリカとは真逆の「アホで陽気な体育会系大学生」というキャラ付けであるところも面白いところ。

 導入部分は個性的で面白いが、中盤からはありきたりのチープなアクション映画でしかない。とはいえ主人公と彼に協力する善玉警官(ウィリアム・H・メイシー)の「善性」は一貫していることや、悪者をやっつけてスッキリと終わる展開のおかげで、爽やかで後味の良い作品となっている。

 

●『女王陛下の007』

 

 

 

ロシアより愛をこめて』に続いて、007シリーズのなかでも評判の良い作品。初期作品にしてはSF要素が控えめでリアリティが高く、またヒロインが魅力的でラブロマンス要素が強調されている、というあたりが共通しているだろうか。

 事件がひと段落した後の結婚式、そしてその後に続くエンディングはたしかに哀しく印象的であり、名作との評価はわからないでもない。雪山でのアクションは当時にしては珍しく独創的であったことはうかがえるし、追われているなかアイススケート場でバッタリと再会したヒロインに助けてもらうところもなんだかロマンティック。

 しかし、いかんせん長過ぎるし、アクションシーンは『ロシアより愛をこめて』と同じくダラダラし過ぎており令和の観客にとって耐えられるようなものではない。どう考えても2時間半は必要なく、削るべきところを削りまくって1時間半にしてくれたほうが、途中で飽きやダレを感じずにエンディングの余韻を味わえただろう。

  ジョージ・レーゼンビー演じるジェームズ・ボンドショーン・コネリーダニエル・クレイグに比べて甘っちょろさやナイーブさが際立っているが、『女王陛下の007』のロマンティックな作品性とはマッチしている。とはいえ、この作風にするなら、ジェームズ・ボンドの「女たらし」という設定が足枷になってしまうのだけれど…。

『ワウンズ: 呪われたメッセージ』+『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』+『ホテル・ムンバイ』+『リズム・セクション』+『ペイ・フォワード 可能の王国』

●『ワウンズ: 呪われたメッセージ』

 

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レベッカ』に続いてアーミ・ハマー主演のホラー、なおかつ『ザ・コール』に続いて「電話」がキーとなる、Netflixオリジナルのホラー映画。

 主人公が拾ったスマホに収められている、生首と学生たちのささやき声の映像、そして死体から謎の手が出てくるショッキングなシーンはアメリカ映画らしからぬ不気味さであり、なかなか印象的。主演のアーミー・ハマーも図体はでかいけれど妙に甘ったるい声や潤んだ目をしているので、理不尽な恐怖に怯える気の毒なバーテンデーという役がちゃんとハマっている。

 しかし、生首関連のシーンはいいのだが、基本となるホラー描写は「大量のゴキブリ」なのは困りもの。単純にキモくていやだが、怖さはむしろ削がれてしまう。ラストシーンはシュールで意味不明だし、途中のホラー描写は少なすぎて中盤あたりで退屈してしまい、「徐々に壊れていく主人公と、失われていく人間関係」といったこの手の心理系ホラーに定番の展開もぜんぜん追う気が起こらなかった。

 心理ホラー要素は黒澤清のほうが断然いいし、オカルト要素も白石晃士で間に合っているしで、ちょっと作り手にとって「荷が重い」内容の作品だったのではないだろうか。あ、ヒロインのダコタ・ジョンソンはかわいかった。

 

●『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』

 

 

 

 けっこう前に観た作品だけど、この映画もヒロインはダコタ・ジョンソンだったのね。ダウン症の青年ザックが施設を抜け出すシーンはワクワクするし、ザックに対するヒロインのスタンスに関する描写も中立的でいいし(「なにかあったら責任とれるの!?」ともっともなことを言いながらもザックを甘やかして自立を阻害していることは否めない、というバランスが絵描かれている)、プロレスラーに会いに行くというストーリーの縦筋も悪くない。

 しかし、ザックの「相棒」となる、シャイア・ラブーフ演じるタイラーのキャラクターがどうにも魅力がない。この手の作品にありがちな、「乱暴だけど気のいい兄ちゃん」というキャラクターの典型以外の何者でもなく、なにか独自な要素や一際輝く個性というものが全く見受けられないのだ。冒頭でやっていた犯罪のツケをストーリー上で払っていないという点では、むしろ平均的な「気のいい兄ちゃん」よりも魅力に劣るかもしれない。

 また、障害者映画というものは障害者の自立を謳いつつ、なんだかんだ言いながらも結局のところは主人公の障害者を周りの登場人物たちが「介助」する、という構成になる点では偽善や白々しさが付きまとうものだ。この映画の主人公のザックはたとえば『思いやりのススメ』の主人公に比べればだいぶ好感が抱ける人物ではあるが、それでも、ハートウォーミングなロード・ムービーという映画自体のジャンルも相まって「予定調和」感や「はいはいよかったね」という感じはしてしまう。ザックをかすがいにしてダコタ・ジョンソンシャイア・ラブーフがくっつくところも「なんだかなあ」と思うし、エンディングもブツ切りで中途半端だし……。

 

●『ホテル・ムンバイ』

 

 

 

 アーミー・ハマーが準主演の、評判のいい、実際におけたテロ事件に基づいた緊迫感に溢れる映画。

 しかし個人的にはあまり好きになれなかった。テロリストたちは素人っぽくてミスが多いながらも無防備なホテル従業員や宿泊客たちはなす術もなく殺されていく(でも何人かは脱出できてしまえる)というあたりの妙なバランスは、実話を元にしたものであるからこそだろう。カタルシスのない結末を通じてテロ事件の悲劇性や恐怖、悪辣さというものを学べるという点もこの映画の価値であることは認めざるをえない。しかし、実話を元にしているだけに、ストーリーの展開や起伏は映画としては歪でありテンションやリズムを維持できるものではなくなっている。要するに、途中で飽きちゃうのだ。もちろん、 デーヴ・パテール演じるホテル従業員やアーミー・ハマーを史実以上に活躍させてしまったら実話を元にしていることが台無しになってしまうので、史実の範囲でホテル従業員たちや宿泊客たちの「英雄性」も描きつつテロの悲劇を淡々と描写し続けることしかこの作品にはできないのだけれど…。なんだか総じて「お勉強」のために観る作品であった。

 

●『リズム・セクション』

 

 

リズム・セクション (字幕版)

リズム・セクション (字幕版)

  • ブレイク ライヴリー
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 家族をテロで殺された女性がテロリストたちに復讐するために鍛えてスパイになる、『007』の制作陣が関与しているイギリス映画。

 主演はブレイク・ライヴリーだが、主人公の師匠役であるジュード・ロウを目当てに視聴。ジュード・ロウが女主人公を指導して、その冷徹さゆえに裏切られてしまい、最後は敵対する、というのは『キャプテン・マーベル』と一緒だな。

 がっつり修行はしても、主人公は元一般人なので、そんなに超絶的なアクションもできなければ情に流されてミスをしてしまう、というところがこの映画の個性となっている。性風俗業にまで落ちぶれて見た目も台無しになってしまった「どん底」から這い上がるところも、お人好しさや情の深さが「善性」につながっているという点も、主人公を女性にすることの必然性が感じられてよい。ブレイク・ライヴリーの「体当たり」演技はなかなかの見もの。また、ロックミュージックの使い方に通常のアクション映画に比べて「外し」や「ズラし」が利いていて、そこも印象的だ。

 ……とはいえアクションシーンは地味だし、敵はカリスマ性も異質さもないそこらへんのテロリストなので彼を探し出して始末するというストーリーのメインプロットにも惹かれるものはない。

 ところで、身体と心を許した異性が実は敵側の人物であり、裏切られたと気付いた主人公は容赦なく始末する、というのは女性主人公の作品だとたまに見かけるが男性主人公の作品ではほぼ見かけない展開だ。男性の女性に対する甘さや、女性側のミサンドリー(身体を許した相手にすらうっすらと敵意を抱いてる)に由来するものであるかもしれない。また、テーマにフェミニズムを含めるなら、女性主人公はレズビアンにするかセックスした相手を始末する(つまり、遡及的に「男に身体を許さなかった」ことにする)のどちらかしか認められないのかもしれない。女の人って制限が多くて大変だね。

 

●『ペイ・フォワード 可能の王国』

 

 

 

 2000年制作の「感動もの」な作品。たしか松本人志の『シネマ坊主』で評価が辛く、それでなんとなく敬遠し続けてきたのだけれど、いざ観てみるとなかなか感動できた。

 冒頭に自動車を失った記者が弁護士からジャガーをもらうシーンはファンタジック。そして、ケビン・スペイシー演じる社会科の先生が登場して、「世界を変える」ことを児童たちに命じる、という導入部分はかなり魅力的であり、一気に映画の世界に引き込まれる。

 ハーレイ・ジョエル・オスメントが演じる主人公の男の子が「ペイ・フォワード」の試みをやり始める流れと、彼の試みが成功してロサンゼルスにまで広がっていった後の時間軸で記者が「ペイ・フォワード」を行なった人たちに逆順でインタビューしていってその震源地まで遡っていく流れ、という二つの時系列に組み合わせ方も、映画的にかなり上手で魅力的だ。この時系列の描き方が優れているために、二つの時系列が合流して主人公とその周囲の人物が「ペイ・フォワード」の試みが実ったことを事後的に知ることになるというカタルシスが生まれて、さらにその後に起こる「悲劇」の印象が強くなる。……とはいえ、この「悲劇」はいくらなんでも無理矢理であり、最後に「ペイ・フォワード」に救われたであろう大量の人たちがロウソクを持って主人公の家に集まるシーンはかなり感動的であるとはいえ、映画のストーリーの都合のために主人公の運命が操作されている感は否めない。

 また、ケビン・スペイシーのキャラクターは実に魅力的だが、その恋の相手であり主人公の母親でもあるヘレン・ハント演じるヒロインは、キャラクターの性格や経歴的にも見た目的にもあまりに魅力がなさすぎる。80年代〜2000年台のブロンド女優ってなんか個性がなくてパッとしない人が多いんだけれど、なんでだろう。

『ペンギンが教えてくれたこと』+『ザ・ゴールドフィンチ』

●『ペンギンが教えてくれたこと』

 

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 実話に基づいた映画。タイ旅行に行ったサム・ブルーム(ナオミ・ワッツ)は不慮の事故で下半身不随となってしまい、車椅子での生活を余儀なくされるようになった。夫のキャメロン(アンドリュー・リンカーン)は献身的に彼女を支えるのだが、事故の現場に居合わせた息子のジャン(ジャッキー・ウィーヴァー)は責任を感じて暗い子になっちゃうし、これまで一家の母親としてがんばっていた自分が何もできない役立たずに感じられて、サムはめっきり落ち込んでしまう。しかし、ある日、子供たちが怪我をしたカササギフエガラスの雛を拾ってきて、白黒だから「ペンギン」と名付けて、回復するまで家で保護することになった。当初はペンギンのことを鬱陶しがっていたサムだが、家族が出かけているなか家で車椅子でペンギンとふたりで生活しているうちに、同じ立場なもんだから段々と共感して絆が芽生えていく。そうこうしているうちに、昔から好きだったマリンスポーツを再開するため、カヤックの練習も始める。なんだかんだあってサムは自分の境遇を受け入れて、前向きになっていく……(それでカヤックの世界大会とか障害者サーフィンの大会に出て入賞する、めでたしめでたし)。

 

 困難で恵まれない立場にいる主人公が同じような立場にいる動物と出会い、絆を培って、前向きになって社会復帰する……という点では『ボブという名の猫:幸せのハイタッチ』を思い出させる作品だ。後半のほうでペンギンが他の鳥に襲われる危機感あふれるシーンも、ボブが脱走するシーンを連想させる。動物実話ものはやはり話のメリハリを付けるのが難しいためにこのようなハラハラドキドキシーンを挿入するのだろうが、見ていて気が気でなくなるから止めてほしい(わたしの父親は、このようなシーンがあるからという理由で、動物もの映画を観ないことにしているくらいだ)。

 

 

 

 淡々としており面白さはあまりないのだが、ナオミ・ワッツの演技のすごさも手伝い、感情移入させられるクオリティの高い映画ではある。とくに、前半における、サムが車椅子になって家族の役に立たなくなったことによる「惨めさ」や「悔しさ」、それにより内向的になり自傷的になっていく様子の描き方は見事なもの。ついつい「うわ〜」とか「やめて〜」とか口に出ちゃうくらいにのめり込んだ。

 しかし、実話だから仕方がないとはいえ、ペンギンが登場されてからも劇的に癒されるわけではなく、サムの「回復」はかなりゆっくりしたペースで描かれる。もちろん現実では鳥と仲良くなったところで前向きハッピーになれるものではないんだからリアリティがあって丁寧な作劇といえるし、最後に夫からの「How are you?」に「I`m fine」ではなく「I`m better」と答えるところは深みがあるんだけど、映画的な面白さに欠けるのは否めない。ナオミ・ワッツ以外の役者には存在感がないし。あとこれも実話だから仕方がないんだけど、ブルーム一家がちょっと金持ちすぎて、同情心がやや削がれてしまった。

 

●『ザ・ゴールドフィンチ』

 

 

 

 テロ事件で母を失った一人の男の子(オークスフェグリー/アンセル・エルゴート)と彼がテロの直後に美術館からこっそりと持ち出していたゴールドフィンチが描かれた絵画をめぐる数奇な運命を描いた人間ドラマ。2時間半もあって、テンポは悪い。周囲の人間模様も描きつつひとりの人間の半生を子供時代から丸々描こうとするチャールズ・ディケンズジョン・アーヴィング的な「大河」ドラマ感が強く、長編小説が原作であることがありありと伝わってくる。そして一本の映画としては失敗しているのだが、このテのストーリーが映画として面白く成功することのほうがめずらしい(『ガープの世界』も映画になったらイマイチだったし、『フォレスト・ガンプ』はほんとに稀有な例だ)。

 主人公の大人時代を演じるアンセル・エルゴートと、一時的に彼を引き取る一家の母親を演じるニコール・キッドマンは、さすがに魅力的。このふたりの登場人物はキャラクター性もそれなり複雑だ(片方は主人公だから当然なんだけど)。しかし、脇役たちは、映画のキャラクターとしても深みがないし役者としても浅薄だ。とくに父親とその情婦のキャラクターは「欲にまみれたロクでもない児童虐待をする大人」というだけでしかなく、無理矢理に悪役を作って主人公の苦難を負わせている感じがミエミエで(これもまた悪い意味でディケンズやアーヴィングっぽい)、しょーもない。ヒロインもイヤなやつだし。

 テロで親を失う主人公、という境遇からは『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』を思い出した。あれも露骨な感動ものだったけれど、泣いちゃったなあ。

 

 

 

『ゾンビランド』&『ゾンビランド:ダブルタップ』

 

 

 

 

ゾンビランド』は公開の翌年にDVDを借りて観たから10年ぶり(当時から興味があって劇場で見たかったのだけれど、京都の映画館ではやっていないから梅田まで行く必要があってそれで諦めた思い出がある)。今回は『ダブルタップ』と続けて視聴した。

 

 評判の良い作品であり、一作目と二作目の両方ともゾンビ映画のベストとしてあげられているのをよく見かけるが、10年前の時点から、わたしはこの作品を対して評価していないのに。ウディ・ハレルソン演じるタラハシー のキャラクターは魅力的であり、 ジェシー・アイゼンバーグ演じる主人公のコロンバスが彼と出会って、エマ・ストーン演じるウィチタとも紆余曲折ありつつ呉越同舟という感じで同じ車に乗り合わせる、までのくだりはテンポもよくオリジナリティがあって楽しい。「生き残るためのルール」がテロップで挿入されるくだりも軽快だし、ゾンビ者としてのサバイバル要素や緊張感が失われていないところがキモとなっている。しかし、ビル・マーレイの家を訪ねるくだりからは、悪い意味であまりにコメディに寄りすぎて、ダラダラと弛緩した作品になってしまう。10年前も今回も、遊園地という舞台でクライマックスを迎える頃にはすっかり作品に興味を無くしてしまった。

 惰性で続けて観た『ゾンビランド:ダブルタップ』も、前作とまったく同じく、中盤まではそれなりに面白いんだけれど後半になると弛緩し過ぎてつまらない、という有り様になっている。キャラも無駄に増え過ぎていて、ゾーイ・ドゥイッチ演じるマディソンはおバカでエッチで可愛いけれど、他のキャラは余計に感じられた。

 ゾンビものを題材にしたコメディ映画という点では、『ショーン・オブ・ザ・デッド』のほうがギャグも笑えてテンポも良くて緊張感もあって圧倒的に面白い。『ゾンビランド』の"ゆるい"感じの笑いにはすぐに飽きてしまう。エンディングの後の、ビル・マーレイが登場する「楽屋裏」的なネタもかなりひどいもの。そういう点では、同じくビル・マーレイが出演している、『デッド・ドント・ダイ』とも悪い意味で似通っている*1

 結局のところ、この映画が人気なのは、ウディ・ハレルソンジェシー・アイゼンバーグエマ・ストーンと「映画好き」な人たちが特に好むタイプの俳優を揃えてわちゃわちゃ絡み合わせてコメディをやらせるという、「俳優萌え」を楽しめるからであろう。まあたしかにウディ・ハレルソンが擬似家族の父親役をやるというのは面白いし、ジェシー・アイゼンバーグとの絡みも新鮮で楽しい。でもどうせだったらゾンビ要素抜きにして普通のコメディ映画にしちゃったほうがいいんじゃないかなあ。

『善き人に悪魔は訪れる』+『ザ・ハント』+『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク 』

 

●『善き人に悪魔は訪れる』

 

 

 

 あらすじだけを読むと「なんだかありがちだしほんとうに面白くなるの?」という不安感を抱かされるが、格好いい放題やイドリス・エルバという存在感のある主演俳優に惹かれて、視聴。……しかし、あらすじから抱く印象の通り、ありがちでつまらない作品だった。

 悪役が悪人であることは冒頭から明かされているし、それなりに凶暴でそれなりに狡猾ではあるものの、90分の映画の主役を張れるほどの個性は全くない。マジで、ただの「凶悪犯」以外の何者でもないのだ。それに対峙する人妻ヒロインも普通だし、運悪く殺されてしまう女性たちもふつー。死に方もあっけないからグロさもホラーもないし。

 邦題の通りに「善き人」と「悪魔」の対比を描くために人妻ヒロインの善人性を強調すればまだ面白さのある作品になっていたかもしれないが、そんな工夫もされていなくて、ただただフツー。事件が終わった後に、事件の途中で浮気が判明した夫と別れるという展開も「なんだそりゃ」という感じ。

 

●『ザ・ハント』

 

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  • ベティ・ギルピン
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「高慢ちきなリベラルエリートたちが田舎の差別的なレッドネックたちを狩る殺人ゲーム」という、社会風刺モリモリな、デスゲームものをパロディした作品。

 デスゲームが開始して、それなりの美女や美男にスポットが当たって「この人が主人公になるのかな」と思いきや呆気なく殺される、という導入にはかなり惹き込まれる。デスゲームの開始前から悪役たちの存在を描いて「種明かし」しているところも潔い。字幕だと表現しきれていないが、残虐な殺人ゲームを主催しておきながら自分が差別者と認定されることを恐れたり「文化の盗用」とかのポリコレ用語をすぐに口に出すエリートたちの姿も現代的なギャグとしておもしろい。銃を目にした途端にわらわらと群がる田舎白人たちの姿もシュールだ。左右のどちらもジョークの題材にしているのだが、バランス感覚があり、そしてジョークがちゃんと面白いところが優れている。

 ベティ・ギルピンが演じるやたらとパワフルで殺意満々なヒロインはそれなりに魅力的であるが、たとえば彼女がデスゲームをガンガン破壊するといった爽快感のある展開が描かれるわけではなく(途中でエリートたちの大半を殲滅するシーンはあるけれど)、列車に乗ってデスゲームの「会場」から離れて以降の展開は基本的にダラダラとしている。エリートたちの女ボスとの対峙や戦闘シーンも冴えたものではない。この映画の魅力のほとんど全ては前半に収まっており、後半は出涸らしになっていることは否めない。

 ところで、「問題作」と評される本作だが、エリートたちの一人を除けば登場人物は全て白人である点、どちらの陣営も主力は若い女性であり彼女たちの対峙が作品のクライマックスになる点など、アイデンティティ・ポリティクス的な対立構造を煽り過ぎてグロテスクで危険な作品にならないようにするという配慮はきちんとなされていると思う。逆にいえば、そのせいで穏当な範囲に範囲に小ぢんまりと収まっており、物足りなくなっている。たとえば、ヒロインではなく太った田舎白人のおっさんたちのうちのだれかが主役となっていた方が、絵面としてもオリジナリティがあり、そして作品の不穏さも増して面白くなっていたことだろう。

 

●『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク

 

 

 

 

 なんかテレビ放映されていたらしくT Lで感想が流れてきたので、配信で主張。

 以前に見たのはたしか小学生のときで、子どもながらにヒロインにムカついて、次々と恐竜に食い殺されていくハンターたちと、他人を危険に晒してもまったく傷付くことなく守られる主人公陣営との「命の価値」の差に不快感を抱いたが、20年以上経ったのちに観てもまったく同じ感想。感想が変わらなさ過ぎで逆にすごいくらいだ。見直してもなにか新たな発見があるということはまったくなく、とにかくグロテスクに人の命が消費されていく様子を描いただけの、浅薄で下品な作品だと思う。ティラノサウルスアメリカに上陸するシーンにはそれなりにファンタジー性やロマンが感じられるんだけれど。

 スピルバーグは『ジョーズ』のように完成度の高い作品や『ブリッジ・オブ・スパイ』のように感動的な作品も撮れる人物であるが、それだけに、『ロスト・ワールド』や『レディ・プレイヤー・1』のような浅薄で下品な作品を撮っているというのがイヤだ。矜持や一貫性が感じられなくて人間的に不気味であるし、良質な作品のほうで感動的なシーンがあったり人道的なメッセージが強調されていても、「でも『ロスト・ワールド』であんな風に人の生命の価値に露骨な差をつけて描いたやつだぞコイツ」って思い出して不愉快な気持ちになっちゃうのだ。

韓国映画は英語吹き替えで観ることにした(『ザ・コール』)

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 在日アメリカ人であり子供の頃から「家のなかでは英語、外では日本語」という風に暮らしてきたわたしは、逆説的に、語学に関してハンディキャップを持っている。ふつうの日本人であれば中学校から大学まで苦労しながらイヤイヤ英語を勉強させられることで「語学を学習する方法」を身に付けるところ、自然と英語が使えるようになったわたしはその方法を知らないまま成長することになるのだ。なので、大学になってから第二外国語(フランス語)をやらされても、そもそも単語や文法をイチから覚えるという経験がないものだから、単位は壊滅的なものとなってしまった。

 そして、映画の鑑賞においても同様のハンディキャップがある。テレビで流れてきたりビデオ屋で借りれたりする映画の大半って英語か日本語だ。英語の作品を観るときには字幕を付けて見るし、全てのセリフが聞き取れるわけでもないが、それでもだいたいのセリフは理解できる。つまり、字幕だけを目で追って内容を理解するのではなく、「耳」からもかなりの情報が入ってくるのだ。だから字幕では表現しきれないニュアンスや感情も問題なく把握できるし、ずっと画面に目を釘付けにして集中して観る必要はない。

 しかし、フランス語や韓国語の映画となると、字幕をつけて観ざるをえない。洋画が好きで、しかし英語がわからない日本人の多くは「耳からの情報に頼らず、字幕だけを目で追って作品を理解する」という経験を(ハリウッド映画などを字幕付きで観ることで)子供の頃から積んでいるだろうが、わたしはそうではない。なので、ふつうの日本人以上に、英語でもなく日本語でもない映画に抵抗感があるのだ。

 

 

 アメリカ人がすぐに非アメリカ映画をリメイクしたがることについて意識の高い人は揶揄したりポリコレ的な観点から批判したがるけれど、自分の国の映画がハリウッド映画である国とそうでない国とでは他国の映画に対する"慣れ"や"敷居"が違うのは当たり前の話である。自国にある面白い映画の数が限られている日本人や韓国人やフランス人はそりゃ他国の映画を鑑賞する経験に慣れるだろうけれど、アメリカ人からすれば、他国の映画を観る必要ってかなり薄い。だからたまに余所の国がおもしろい映画を作ったなら、リメイクしたほうが、より多くのアメリカ人がその作品に触れられることになるのだ。だってニューヨーカーとかカリフォルニアンとかだったら韓国映画も観にいくかもしれないけれどテキサスの人とか観にいかないでしょ多分。

 

 このブログで非英語・非日本語映画の評価が辛くなりがちなのも、まず鑑賞における集中力や時間(日本語や英語の作品なら家事しながらでも観れるけど、耳で情報が入ってこない作品はそういうわけにはいかない)といった「コスト」が跳ね上がるので、その「コスト」に見合うだけのクオリティやおもしろさを作品に要求してしまう(そして大体においてその要求は満たされない)からである。

 

「じゃあ吹き替えで観ればいいやんけ」と言われたらたしかにそうなのだが、わたしは洋画の日本語吹き替えってマジで苦手だ。どうにも日本の声優の演技が受け付けず、どんな作品であっても、途端にアニメのような安っぽいものとして感じられてしまう。せっかくのフランス映画や韓国映画も、途端に「邦画」になっちゃうのだ。

 しかし、Netflixオリジナルの韓国作品に関しては、日本語版サイトからも英語吹き替えが選択できるようだ。それで、評判の良い『ザ・コール』を試しに英語吹き替えで観てみたら、これがとてもマッチしていた。かわいいかわいいパク・シネが英語でFuck! だとか Bitch! だとか叫んびながら激昂したり慌てていたりする姿にまったく違和感がなかったのだ。声優の演技もぜんぜんヘンではなく、日本語吹き替えに比べてもずっとクオリティが高いと思う。また、だいたいにおいてケレン味が過剰でトンチキな韓国映画の世界観は、アメリカ映画と同じくらいには虚構性が高いので、英語にすれば「洋画」のひとつとしてスルスルと観れちゃうのだ。これなら、今後も韓国映画(やフランス映画や香港映画)は英語で観れば苦手意識を抱かずに楽しんで観れるな…と思ったところ、Netflixでも英語吹き替えが用意されているのはオリジナル作品だけなようであり、気になっている『エクストリーム・ジョブ』にも『EXIT』にも『スウィング・キッズ』にも吹替は用意されていなかった。残念。

 

 というわけで前置きが長くなったけれど、『ザ・コール』、なかなか面白かった。なんといっても主人公のパク・シネが可愛いし、悪役のチョン・ジョンソもエロくてよかった。

「同じ家のなかで10年の時を超えて通じる電話」というタイムトラベル要素を使ってサイコ・ホラーを描くという発想がまず優れている。序盤における虐待を受けている悪役に対して主人公が未来の世界の有様を電話で教えるシーンなどにはタイムトラベルもの特有のワクワク感やファンタジー性があるし、悪役が主人公の父親を助けて良い方向に運命を変える描写を挟みながらも、不穏さを小出しにすることで徐々にホラーへと転調させていく……という構造がかなり巧みに成立している。「未来を変えれる悪役」と「過去に関する情報を把握している主人公」がそれぞれの優位性を活かしながら駆け引きして戦う展開にはSF能力バトルといった趣もあるし、しかしケレン味に振り切らずに恐怖や緊迫感を失わないところも素晴らしい。悪役の母親に関するミスリードも優れているし、気の毒な警官やイチゴ屋さんなどの脇役もなかなかの存在感だ。

 とはいえ、惜しいところもいくつかある。せっかくの「駆け引き」要素も、悪役を爆死させる主人公の策が失敗して以降は失われてしまい、主人公の母親と警官が悪役の家を訪れて以降のクライマックスの展開では「タイムトラベル電話」のギミックがほぼ活かせていない。「そこから逃げて」と喚き続けるだけだったら、10年後の未来から電話をかける必要がないからだ。

 タイムトラベル電話により悪役の助力を借りることで死んだはずの父親を復活させて、火傷も消せたのに、けっきょく父親は悪役に殺されるし火傷も元に戻る、という運命論的な展開はタイムトラベルものの定番ではあるけれど、収まりがよい。そして、諸々の事件をきっかけとして母親のありがたみがわかる、というエンディングも教訓的で、かなりスマートであると思う。

 ……だからこそ、悪役の勝利で終わってしまい主人公の苦闘が台無しになるラストの後味の悪いオチはいらなかった。そもそも主人公は全く悪いところのない善人(そして美人)であるのだから、あんな酷い目にあういわれはない。主人公がこれまでよりもずっとひどい運命に置かれるのに悪役は本来の末路よりもずっと条件の良い未来を手に入れる、というのも理不尽だし、エンディングまで作品に一貫していた運命論にも反しているだろう。細かく考えれば、矛盾点やツッコミもいっぱいあるはずだ。

 ジェイク・ギレンホール主演のエイリアン映画『ライフ』のオチについても思ったけれど、いくらホラー映画だからといって、「後味の悪いオチを描かなければならない」と義務付けられているわけではないのだ。後味の悪いオチになることが作品のストーリーやテーマ的に必然性のあるホラーもあるだろうけれど、作品で描いてきたテーマや主人公たちの苦闘やそれによる感動を台無しにするタイプのオチには、「ホラーだから最後は胸糞悪くしなきゃ」という手癖や惰性が感じらレてしまうのである。

 

 

 

『007』シリーズ:『ロシアより愛をこめて』+『カジノ・ロワイヤル』+『慰めの報酬』+『スカイフォール』

 

 

 

 

 

 わたしは『007』シリーズの熱心なファンではなく、劇場で観たのもこの記事を書いている時点での最新作の『スペクター』のみ。『スカイフォール』が公開当時に騒がれていたのだが、当時はまだアクション大作映画を個人的に面白いものだとは思っておらず、またDVDで観た『カジノ・ロワイヤル』がどうにもつまらなかったので、スルーしてしまったのだ。しかし、『スペクター』が面白かったので直後にDVDで『スカイフォール』を観たらこれも面白く、内容的にも「劇場で観ればよかったな…」と後悔したものである。

 旧い作品に関しては大学の図書館にDVDが揃っていたので、『ゴールドフィンガー』を観たらまあまあ面白く、それならばと続けて『ダイヤモンドは永遠に』を観たらあまりに締りがなくダラダラとつまらない作品だった思い出がある。ただし、これはほぼ10年前の記憶だ。

 

 そしてPrime Videoでシリーズ全作が一挙無料開放されたということで、かなり久しぶりに『007』を観てみることにした。

 まず名作と名高い『ロシアより愛をこめて』を観てみたが、これはちょっと古過ぎて、現代人に耐えられるものではない。ショーン・コネリーは毛深過ぎて不潔感が漂うし、ボンドガールのダニエラ・ビアンキがものすごく美人でエロいことは認めるが、人格や人間性というものを感じられるキャラクターになっていない。トルコかどっかでエロい格好した女の人が踊る描写もオリエンタリズムとセクシズムの抱き合わせでふつうに不愉快。もちろん昔の映画だから仕方がないとは言えるのだが、時代制約的な偏見描写やステレオタイプ描写が許されるのは、それを補って余る面白さが作品にある場合に限る。しかし、ストーリーはトロくてアクションはモタモタしていて敵はアホみたいで、そのくせ各陣営の関係性は妙に複雑でと、いいところがまるで見つからない(列車のなかで襲ってくる金髪の敵キャラはそれなりに貫禄があったと思うけれど)。これが名作と評されるのは、「公開当時にしてはすごい」というボーナスによるものでしかないと思う。

 

 後日、『カジノ・ロワイヤル』から『慰めの報酬』に『スカイフォール』と、『スペクター』を除くダニエル・クレイグ版ボンドを一気に視聴。

 しかし改めて見たら、どの作品もどうにも楽しめきれず、惜しさが残る。『カジノ・ロワイヤル』に関しては、マッツ・ミケルセン演じる敵キャラはキャラクター性が濃くて格好良いし、エヴァ・グリーンが演じるボンドガールも実に魅力的。しかし、マッツ・ミケルセンが途中で退場してからは緊張感が途切れて締まりのない展開になるし、最後に描かれるエヴァ・グリーンの裏切りもどうにも尺が長くて押し付けがましい。青臭いボンドの姿は新鮮だし、作品がやろうとしていることもわかるんだけれど、2時間半もかけて描くような内容ではないと思うのだ。

 カジノにおけるポーカーのシーンも、すぐにトラブルが発生したり別の舞台でのアクションシーンが挿入されたりするせいで、ゲームの展開が追いづらいし、「手に汗握るギャンブル」としての純粋な面白さは描けていない。そして、『カイジ』や『嘘喰い』を読んできた身としては、これは実に物足りない。なんか「無駄に展開を複雑してあとは緊張感あふれる雰囲気を演出すれば、それでギャンブルを描けた感じになるだろう」といった甘えを感じるのである。

 

慰めの報酬』は世評の通り大したことのない作品だ。なんといっても、マチュー・アマルリック演じる敵キャラクターがあまりに小物っぽくてしょぼ過ぎて、「こいつは中ボスだろうから大ボスはいつ出るんだろう」と思っていたら出てこなくで逆にびっくりしたし、俳優としてもちょっと顔に締まりがなくて前作のマッツ・ミケルセンの後にこいつなもんだから余計に「なにこれ?」感が漂う。とはいえ、オルガ・キュリレンコ演じるボンドガールはエロいしキャラクターも活き活きしていて素敵。ジェマ・アータートン演じるストロベリー・フィールズが一瞬にしてボンドに落とされてしまうチョロさも、それが仇となって殺されてしまう気の毒さもなかなか印象的だ。

 なにしろ上映時間が短いし、ストーリーもシンプルなので集中力も入らず、観るのにエネルギーがいらない点も悪くなかった。

 

 そして『スカイフォール』。最初に観たときは面白かったこの映画も、改めて観てみると、ハビエル・バルデム演じるラウル・シルバの動機がショボい私怨に過ぎて、ストーリーの世界観がかなり狭くてしょうもなく思えてしまう。ジュディ・デンチ演じるMとボンドが道連れになるくだりはシリーズの他作品がないような独特さもあるし、後半の展開は意外かつスリリングなものであることはたしかだし、ベレニス・マーロウ演じるボンドガールがあまりにも呆気なく退場するシーンはかなり衝撃的だし、ナオミ・ハリス演じるマネーペニーもいいキャラしている。だけれど、たとえば「悪戯」や「演出」が好きなラウル・シルバにはジョーカーやレックス・ルーサーやグリーン・ゴブリンといったアメコミ作品のヴィランを彷彿とさせて、それなら荒唐無稽に振り切ったアメコミヴィランのほうが魅力的だ。世界を巻き込んだ風でいながら身内同士の私怨による内輪揉めでした、という展開も、悪い意味で実にアメコミ映画っぽい。

 つまり、『007』シリーズを観ていると、「アメコミ映画がここまで発達した現代ではもういらないんじゃない?」と思えてしまうのである。「古き良きスパイ映画」としての洒脱感や面白さは『コードネームU.N.C.L.E』のほうがずっと優れているし、かといって現代の世界情勢にマッチした展開が最近の007作品でやれているというわけでもないように思える*1。『カジノ・ロワイヤル』以降は「青臭さ」や「人間味」や「成長」を描いてきたといっても、結局のところジェームズ・ボンドはかなり虚構性が高いうえに超能力(女を一瞬で落とせること)すら持っている荒唐無稽なキャラクターなのであって、じゃあバットマンキャプテン・アメリカですらリアルな人間として描写できるようになった現代においてボンドなんて中途半端なキャラクターをわざわざ描く必要はあるのか?という気がしてしまうのだ。

 もしかしたらテーマ設定の仕方や画面の構成、アクションシーンの描き方などに『007』シリーズでないとできない、唯一無二のオリジナリティや一本筋や志が含まれていたりするのかもしれないが、わたしにはそれが見えてこなかった。

 

 とはいえ、ひたすら女性が甘やかされて男が貶められる昨今のポリコレ映画情勢において、描写の面でもテーマの面でも様々なアップデートをはかりながら、それでもなお「女はボンドにコロッと落とされるものであり、二人に一人は死ぬものである」と言わんばかりのミソジニックとも言える展開を続けているところには、『007』のオリジナリティと価値があると言えるかもしれない。なんだかんだ言ってこの「様式美」には面白さがあるし、ある種のリアリティだって含まれているのだ。逆に言えば、それをなくしてしまったらいよいよ持って『007』シリーズを作る価値はなくなる。となると、ボンドを黒人やアジア人にすることは全く問題ないし、両性愛者や同性愛者にしたらむしろさらに深みが増しそうだが、女性にだけはしてはいけないだろう。