THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『クーリエ:最高機密の運び屋』

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 ついつい『ブリッジ・オブ・スパイ』を連想してしまう設定だが、予想以上に内容は『ブリッジ・オブ・スパイ』に近い。設定だけでなく、自由主義食とソ連の人間との「男の友情」やブロマンス、「信念」といったテーマが似ているのだ。

 この作品の最大の感動ポイントは、収容所に入れられてしまったグレヴィル(ベネディクト・カンバーバッチ)がオレヴ・ペンコフスキー(メラーブ・ニニッゼ)の手を握りながら「君の決意は無駄じゃなかった、君はやり遂げたんだ」と伝えるシーンだろう。やはり『ブリッジ・オブ・スパイ』でトム・ハンクスマーク・ライランスから「不屈の男」と呼ばれるシーンを連想してしまうが、讃える側と讃えられる側の陣営の東西が入れ替わっているところがポイントであるだろう。また、『クーリエ』のほうでは男たちは収容所に入れられて頭をそられて心身ともにボロボロになっているからこそ、そんななかでも友情を忘れず信念を讃えるカンバーバッチの姿にグッとくるものがあるのだ。

 

 お高くとまっていたりユーモラスな役をやったりする印象が強いベネディクト・カンバーバッチであるが、この映画の前半ではふつうのセールスマンという「庶民」を、そして映画の後半では友情のために自己犠牲を厭わない「熱い男」を、見事に演じきっている。いままでは「個性的な顔つきのおかげでシャーロック好きの女の子にウケているだけデショ」と若干妬みつつそんなにカンバーバッチのことは評価していなかったんだけれど、『クーリエ』を観たら褒めざるを得ない。すごい俳優だ。

 準主役であるメラーブ・ニニッゼも魅力的だ。使命感を胸に秘めつつ祖国を裏切り続ける役柄なので基本的に常に顔が緊張しており、表情のパターンも乏しい役柄なのだが、眼力がすごいおかげで存在感を発揮し続けている。そして、そんな彼が珍しく表情を崩すダンスシーンでの笑顔も印象的だし、その笑顔が後半の回想シーンで効いてくるのがよい。

「眼力」といえば、CIAの諜報員エミリー・ドノヴァンを演じるレイチェル・ブロズナハンもなかなかのもの。彼女のまん丸い青い目がスクリーンいっぱいに映し出されるシーンが多々あり、いやでも印象に残る。女性らしい同情心や真面目さに溢れながらそれが空回りしてしまうエミリーのキャラクター性も実話ならではという感じであるが、ブロズナハンは役柄にマッチしていた。

 

 観る前は「ずっと緊張感が漂っていたり重たかったりしたらイヤだな」と思っていたけれど、サスペンスがあふれるシーンや収容所に入れられるこおとによる辛さや苦しさが強調されるシーンは後半にとっておいてあり、前半はテンポよくストーリーが進んでいくところも素晴らしい。諜報員の事務所のテーブルがどんどん増えていくくだりにはワクワク感があるし、ロシアの人たちがイギリスの煌びやかな消費文明を毒付きながらも楽しんでしまうシーンは定番ながらもおもしろいものだ。

 最初にグレヴィルが電話を受けるシーンにて二つの部屋を同時に写す撮影の仕方も印象的であり、「日常」の象徴であるグレヴィルの奥さんを演じるジェシー・バックリーまさに「庶民」という感じでスパイスが効いている。グレヴィルが過去に浮気をしていたという事実が奥さんに疑惑を抱かせるくだりもリアリティがあるし、だからこそ奥さんが収容所を訪れるシーンの感動にもつながるわけだ。

「実話」であることに甘えず、さまざまな点で工夫を効かすことで、観客を最初から最後まで楽しませることに成功した映画であるといえるだろう。

 

 

 ……とはいえ、やっぱり『ブリッジ・オブ・スパイ』の後発であるという事実は無視できない。そして『ブリッジ・オブ・スパイ』が100点だとすれば、『クーリエ:最高機密の運び屋』は90点だ。『ブリッジ・オブ・スパイ』にあったほどのパワーやドラマチック性には、惜しいところで欠けているためである。90点でもすごいもんだけど。

『レミニセンス』

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インセプション』を連想させるような予告が話題であるが、過去にとらわれるかどうかというエンディングはたしかに『インセプション』を想起させる。そして、『インセプション』の最大の感動はレオナルド・ディカプリオ演じる主人公が夢(=亡き妻との過去)の世界に決別して現実(=現在)を生きる選択をしたことをふまえると、『レミニセンス』の主人公のヒュー・ジャックマンが現在を捨てて過去を選択することは、「こういうオチもあるのね」とは思えるけど感動に欠ける。作品としてのメッセージ性や志も、かなり低いところまで落ちてしまったように思えるのだ。

 

 とはいえ、チームによるミッションものであった『インセプション』とは違い、この作品は(タンディ・ニュートンという相棒も一応いるけど)主人公がひとりで孤独に真相を追い求めるハードボイルドな探偵ものだ。そしてハードボイルド映画らしく、レベッカ・ファーガソンというヒロインに対するロマンチシズムはこれでもかというくらいにたっぷり描かれている(そんなに美人だとも思えないし、「そこまで引きずることあるかぁ?」って思っちゃったんだけれど、それを言い出したらこの作品に限らずハードボイルド探偵映画はだいたい成立しなくなってしまう)。最近のハードボイルドものといえば『マザーレス・ブルックリン』だけれど、ロマンスの要素が弱めなあちらに比べたら、『レミニセンス』は近未来SFという特異な設定ながらハードボイルドの王道を2021年に貫徹しているという点では評価に値するだろう。すくなくとも気骨が感じられる作品ではある。ハードボイルド探偵の主人公は情けなく女を追い求めてチンピラに暴力を振るわれて迂闊なミスから大ピンチに陥るのが定番であり、この作品でもそういった要素がコテコテに盛り込んであるが、ヒュー・ジャックマンのムチムチマッチョな体系と、意外と甘ったるくて情けない顔立ちも、この作品の主人公としては実にふさわしい。

 とはいえ、ストーリーの単調さや真相のしょうもなさ、ボス敵のショボさなど、ハードボイルド作品に特有の欠点もしっかり残してしまっている点は困りもの。せっかくの近未来SF設定なんだから、それをフルに活かして欠点を改善するくらいの工夫はしてほしかった。脳がイカれてしまい夫との過去を再現しようとしつづける老婆の狂気を描くシーンはよかったし、黒幕の男子もちょっと気の毒で印象的だったけれど。

 

 監督が女性であることにはけっこう驚いた。いかにも男性的な理想とロマンを描いているし、ヒロインがけっきょくは善人であるという世界観の甘ったるさも男性監督のそれのように思えたのだ。とくに、主人公が悪役の記憶を覗くことを前提にした「告白」シーンは胸ヤケがするくらい甘ったるい。でもまあ、ちょっとロマンチシズムが露骨過ぎて今の男性監督には恥ずかしくて描けなくて、女性監督だからこそ「男ってバカね~」と思いつつ描けたのかもしれない。SNSの感想を観ると、ヒュー・ジャックマンを「愛でる」という観点で観ている女性も多いようだ。

 しかし、ドラマ畑出身の監督であるせいか、セリフによる説明が多すぎたと思う。なんでもかんでも説明してしまうし、冒頭も終わりもひたすらクドく描写されるので、ハードボイルド映画としての余韻が感じられないというところもあった。

 

 

 

『スウィング・キッズ』+『EXIT』+『エクストリーム・ジョブ』

●『スウィング・キッズ」

 

 

 

 朝鮮戦争時の捕虜収容所を舞台としており、タップダンスを通じて北朝鮮兵士のロ・ギス(D.O.)と米軍の黒人兵士のジャクソン(ジャレッド・グライムス)が友情を培っていき、ほかにも中国人兵士や女性通訳士などもタップダンスチームに参加して仲良くなってあれこれと関係を深めていくが、最終的には収容所内で暴動とその鎮圧が起こってジャクソン以外はみーんな死んじゃいます、というお話。

 前半は実にテンポがよく、自由主義嫌いのギスがタップンダンスの魅力には逆らえずついつい絆されていく流れの描写も丁寧だし、個性の強い脇役たちも魅力的だ。白人兵士たちの「ダンスバトル」のシーンでは、戦時を舞台にしたファンタジー人情ものとしてのこの作品の魅力が最高潮に達する。しかし、ダンスバトルで負けた白人兵士たちがけっきょく暴力に訴える流れを皮切りにして、乗り越えられないイデオロギー対立や分断や憎しみなどの「リアル」が顔を出していく。……だけれど、韓国映画らしく、この「リアル」なバイオレンスの描写が過剰なくせに雑で、リアリティをまったく感じられない。クライマックスの「悲劇」も、無理矢理につくられたものとしか思えないのだ。それに対する救済の描写もなくて「なんやねん」となる。こんなんだったらお花畑なファンタジーに徹していた方がはるかに魅力的な作品になっていただろう。

 もちろん、最初から最後までファンタジーとリアリティの配分が絶妙だった『ジョジョ・ラビット』には及ぶべくもない。比較するのもおこがましい。

 リアリティを描こうとしているくせに「死亡フラグ」をネタにしたコメディタッチで死亡シーンが描かれるのは頭がおかしいとしか言いようがないし、冒頭でギスが踊るコサックダンスがCGで描かれているのも作品のメインモチーフである「ダンス」の価値をしょっぱなから貶めていて「ナメとんのか?」という感じだ。『パラサイト:半地下の家族』もそうだけど、韓国映画って、傑作に必要とされるはずの洗練や徳や品性をかなぐり捨てがたる悪癖が強すぎると思う。

 

●『EXIT』

 

EXIT(字幕版)

EXIT(字幕版)

  • チョ・ジョンソク
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 毒ガスであふれる高層ビルから、ニートの青年(ヨンナム)とホテルウーマンのウィジュ(イム・ユナ)が脱出をはかる、サバイバルもの。

 序盤はパニック映画としての要素もあるが、主役カップル以外は早々に救出されるし、一般市民はともかく主人公の関係者は死んだりしない。明るくて前向きでコメディ・タッチな雰囲気が常にただよう、ゆるい感じの作品だ。

 コメディ描写はありきたりで指して面白くないし、クライマックスの展開もありがちで予想が付くものだが、まあ見ていネガティブな感情は抱かない。『#生きている』といい、ニートの青年が主人公になるというのはアメリカ映画ではなかなか見られなくて、韓国映画と日本映画の妙な共通点だと思う。マンガ的な感じがするね。

 

●『エクストリーム・ジョブ』

 

 

 

 麻薬捜査班の落ちこぼれ五人組が犯罪現場を特定するためにフライドチキン店をはじめたらそれが繁盛してしまい……というコメディなポリス映画。

 ギャグはコテコテであるし、アメリカ映画っぽさもやや強すぎるが(ハリウッドリメイクが決定しているらしいが納得だ)、なかなか面白い。導入の設定のおもしろさだけなく、主役であるおっさんのコ・サンギ (リュ・スンリョン)をはじめとして捜査官五人組のキャラも敵役のキャラもしっかり立っている。テーマソングもテンションが上がるし、クライマックスの格闘シーンにて落ちこぼれ五人組が格闘面ではエリートであることが判明する流れも実に爽快で楽しい(おっさんのしょぼくれっぷりの演技が見事で、すっかり騙されてしまった)。

 日本語吹き替えがあったので、それで観たんだけれど、ところどころ違和感を抱きつつも、抵抗感なく観れた。ほかの二作よりも好印象が抱けたのも吹き替えによりストレスや負担なく観れたということがあるだろう。

 

 

 

『シンデレラ』+『ワインは期待と現実の味』+『ボーダー 二つの世界』+『ラスト・アクション・ヒーロー』+『セルラー』+『女王陛下の007』

●『シンデレラ』

 

 

シンデレラ

シンデレラ

  • カミラ・カベロ
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 ノリの良さとお気軽さに振り切った、バカバカしいけど楽しい感じのミュージカル作品。ファンタジー世界でありながらジャネット・ジャクソンやクイーンやマドンナなどのロックミュージックが堂々と流れるし、登場人物たちは服も肌の色もカラフルで血色も良くてノリもやたらと現代的だ。 

 とはいえ、ノリが軽いのはいいけれど、楽曲もダンスもゆるくてイマイチ記憶に残らないのは困りもの。『ラ・ラ・ランド』どころか『イン・ザ・ハイツ』にもずっと踊っている。登場人物たちも、イディナ・メンゼル演じる継母とビリー・ポーター演じるファビュラス・ゴッドマザーは魅力的だし、 タッラー・グリーヴ演じるグウェン皇女も可愛らしいが、肝心のシンデレラ(カミラ・カペロ)と王子(ニコラス・ガリツィン)が役者の問題のために全く存在感がなく魅力に欠けている。特にシンデレラは魔法に変えられて変身した後にも髪型が重たく野暮ったいままで、せっかく彼女がデザインを考えた設定のドレスも無駄になっている(ところで主人公たちがラテン系というところも、ヒロインが服装デザイナーというところも、『イン・ザ・ハイツ』と被っているな)。

 

●『ワインは期待と現実の味』

 

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 だいぶ前に観た映画だけど忘れないうちに感想をメモしておく。

 ワインソムリエを目指す黒人青年が主人公の話だが、邦題通りに「現実」がのしかかる、サクセスストーリーとまではいかないほろ苦いストーリーだ。そもそもソムリエ試験は現実でもべらぼうに難しいものなので、周囲の協力もそこまで得られていない主人公が成功しないという展開にはリアリティがある。また、ブラック・ムービーであるということから、安直なサクセスストーリーやファンタジーではなく「現実」の厳しさや重苦しさを描かなければ、という問題意識みたいなものもあるだろう。白人によるハイカルチャーでハイセンスな「ワイン」とローカルチャーで土着的で黒人文化に根ざした「バーベキュー」という対比もいいし、その二つが安直に和解しないところも逆に新鮮だ。

 ま、とはいえ、映画としてはあまり面白くなかった。

 

●『ボーダー 二つの世界』

 

 

 

 同じく、だいぶ前に観た映画。同じ原作者による『ぼくのエリ 200歳の少女』はかなり好きな映画であるから期待していたのだが、こちらはダメだった。

 ルッキズムなりセクシズムなりを否定するという問題意識を前提としているようであり、主人公や相手型の男性の造形をわざと醜くして、醜い二人による目を背けたくなるような性交シーンを描いて、他にも視覚的にグロいシーンがいくつか登場する。というわけで観客の不快感や生理的嫌悪感を刺激することについては並のホラー映画よりもずっと性交しているが、それが作品の面白さにつながっているかどうかは別の話。そして、「ルッキズムなりセクシズムなりを否定するという問題意識」という高尚なお題目が露骨であるために、不快であるだけでなく偉そうでうざったらしい作品でもあった。いかにも批評家が好みそうな作品であるというか、批評的な人を狙い撃ちにした作品であるんだろうけれど、まんまと狙い通りに撃たれてしまう批評家に存在価値ってあるのかと思ってしまう。

 

●『ラスト・アクション・ヒーロー

 

 

 

 オースティン・オブライエン演じる主人公の少年がひょんなことから手に入れた「魔法のチケット」の力によりアーノルド・シュワルツェネッガー主演のアクションヒーロー映画、「ジャック・スレイター」の世界に入り込み、ジャックと交流を深めるも、今度は「魔法のチケット」を手にした映画世界の悪役のほうが現実世界に出てきてしまって…。

 

 小学生の時に観て以来なのでなつかしくなってNetflixで見かけたときに20年以上ぶりに視聴してみたのだが、改めて見ると『フリー・ガイ』と共通するところが多い作品だ(実際に、脚本などのスタッフが一部共通しているらしい)。『フリー・ガイ』と比べると時代的な制約もあってかメタフィクションや「物語」をテーマにした作品としての作り込みはかなり甘く、無難な「映画あるあるネタ」やパロディネタとカメオ出演に終始している感は否めない。しかし、美女しか存在しないロサンゼルスの世界で気軽に女性をゲットできていたジャック・スレーターが現実世界にきて「はじめて女性とじっくりと話せた」と喜んだり、初めて聴いたクラシック音楽に感慨を抱くシーンなどにはなかなかの批評性が感じられて印象的。前半における「ジャック・スレイター」世界の描写はそこそこで済ませて、彼が現実世界を訪れてからの変化などに尺を割いた方が作品としてのクオリティは高くなっていたかもしれない。

 せっかく悪役が「魔法のチケット」を悪用して他の映画世界から応援を頼むのに、追加されるヴィランは悪役と同じく「ジャック・スレーター」シリーズからのキャラクター、つまり映画内映画のキャラクターであるというところはがっかりというか物足りない。ここはファンタジーやホラーなどの作風や世界観がまったく異なる映画から呼び出したうえで「アクション・ヒーロー」と対峙させるべきだろう。悪役が口にしていた通りキング・コングやドラキュラでも呼び出してほしかったところ(最後に『第七の封印』から抜け出してきた死神が訪れるシーンには緊張感があるけれど)。ジャック・スレイターとアーノルド・シュワルツェネッガーの対面シーンも短くて充分ではない。とはいえ、主人公の少年の成長や活躍も描かなければいけないという点も考慮すると、尺が足りないという問題もわかるんだけれど……。

 

『フリー・ガイ』もよかったけれど、この映画そのものを現代風にリメイクしてもかなり面白くなりそうなところだ。ただし、アーノルド・シュワルツェネッガーに比肩するほどの存在感とカリスマ性のあるアクション俳優が存在しない、というところが最大のネックとなるだろうか(昔に比べると、現代はアクション俳優が乱立している時代だ)。ジェイソン・ステイサムはちょっと親近感が抱けなさすぎるので、ドウェイン・ジョンソンあたりが落としどころになるだろうか。

 

●『セルラー

 

 

 

 

 キム・ベイシンガーが主役っぽく見えるパッケージだけれど、どう考えてもクリス・エヴァンスのほうが主役。たまたま自分にかかってきた発信元不明の謎の電話で「監禁されているの」と助けを求める女性のことを最初は疑うがすぐに信じてしまい、彼女を助けるために身体を張ってジェイソン・ステイサム率いる悪徳警官グループと戦う栗エヴァの姿にはキャプテン・アメリカの片鱗がうかがえる。とはいえキャプテン・アメリカとは真逆の「アホで陽気な体育会系大学生」というキャラ付けであるところも面白いところ。

 導入部分は個性的で面白いが、中盤からはありきたりのチープなアクション映画でしかない。とはいえ主人公と彼に協力する善玉警官(ウィリアム・H・メイシー)の「善性」は一貫していることや、悪者をやっつけてスッキリと終わる展開のおかげで、爽やかで後味の良い作品となっている。

 

●『女王陛下の007』

 

 

 

ロシアより愛をこめて』に続いて、007シリーズのなかでも評判の良い作品。初期作品にしてはSF要素が控えめでリアリティが高く、またヒロインが魅力的でラブロマンス要素が強調されている、というあたりが共通しているだろうか。

 事件がひと段落した後の結婚式、そしてその後に続くエンディングはたしかに哀しく印象的であり、名作との評価はわからないでもない。雪山でのアクションは当時にしては珍しく独創的であったことはうかがえるし、追われているなかアイススケート場でバッタリと再会したヒロインに助けてもらうところもなんだかロマンティック。

 しかし、いかんせん長過ぎるし、アクションシーンは『ロシアより愛をこめて』と同じくダラダラし過ぎており令和の観客にとって耐えられるようなものではない。どう考えても2時間半は必要なく、削るべきところを削りまくって1時間半にしてくれたほうが、途中で飽きやダレを感じずにエンディングの余韻を味わえただろう。

  ジョージ・レーゼンビー演じるジェームズ・ボンドショーン・コネリーダニエル・クレイグに比べて甘っちょろさやナイーブさが際立っているが、『女王陛下の007』のロマンティックな作品性とはマッチしている。とはいえ、この作風にするなら、ジェームズ・ボンドの「女たらし」という設定が足枷になってしまうのだけれど…。

『ワウンズ: 呪われたメッセージ』+『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』+『ホテル・ムンバイ』+『リズム・セクション』+『ペイ・フォワード 可能の王国』

●『ワウンズ: 呪われたメッセージ』

 

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レベッカ』に続いてアーミ・ハマー主演のホラー、なおかつ『ザ・コール』に続いて「電話」がキーとなる、Netflixオリジナルのホラー映画。

 主人公が拾ったスマホに収められている、生首と学生たちのささやき声の映像、そして死体から謎の手が出てくるショッキングなシーンはアメリカ映画らしからぬ不気味さであり、なかなか印象的。主演のアーミー・ハマーも図体はでかいけれど妙に甘ったるい声や潤んだ目をしているので、理不尽な恐怖に怯える気の毒なバーテンデーという役がちゃんとハマっている。

 しかし、生首関連のシーンはいいのだが、基本となるホラー描写は「大量のゴキブリ」なのは困りもの。単純にキモくていやだが、怖さはむしろ削がれてしまう。ラストシーンはシュールで意味不明だし、途中のホラー描写は少なすぎて中盤あたりで退屈してしまい、「徐々に壊れていく主人公と、失われていく人間関係」といったこの手の心理系ホラーに定番の展開もぜんぜん追う気が起こらなかった。

 心理ホラー要素は黒澤清のほうが断然いいし、オカルト要素も白石晃士で間に合っているしで、ちょっと作り手にとって「荷が重い」内容の作品だったのではないだろうか。あ、ヒロインのダコタ・ジョンソンはかわいかった。

 

●『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』

 

 

 

 けっこう前に観た作品だけど、この映画もヒロインはダコタ・ジョンソンだったのね。ダウン症の青年ザックが施設を抜け出すシーンはワクワクするし、ザックに対するヒロインのスタンスに関する描写も中立的でいいし(「なにかあったら責任とれるの!?」ともっともなことを言いながらもザックを甘やかして自立を阻害していることは否めない、というバランスが絵描かれている)、プロレスラーに会いに行くというストーリーの縦筋も悪くない。

 しかし、ザックの「相棒」となる、シャイア・ラブーフ演じるタイラーのキャラクターがどうにも魅力がない。この手の作品にありがちな、「乱暴だけど気のいい兄ちゃん」というキャラクターの典型以外の何者でもなく、なにか独自な要素や一際輝く個性というものが全く見受けられないのだ。冒頭でやっていた犯罪のツケをストーリー上で払っていないという点では、むしろ平均的な「気のいい兄ちゃん」よりも魅力に劣るかもしれない。

 また、障害者映画というものは障害者の自立を謳いつつ、なんだかんだ言いながらも結局のところは主人公の障害者を周りの登場人物たちが「介助」する、という構成になる点では偽善や白々しさが付きまとうものだ。この映画の主人公のザックはたとえば『思いやりのススメ』の主人公に比べればだいぶ好感が抱ける人物ではあるが、それでも、ハートウォーミングなロード・ムービーという映画自体のジャンルも相まって「予定調和」感や「はいはいよかったね」という感じはしてしまう。ザックをかすがいにしてダコタ・ジョンソンシャイア・ラブーフがくっつくところも「なんだかなあ」と思うし、エンディングもブツ切りで中途半端だし……。

 

●『ホテル・ムンバイ』

 

 

 

 アーミー・ハマーが準主演の、評判のいい、実際におけたテロ事件に基づいた緊迫感に溢れる映画。

 しかし個人的にはあまり好きになれなかった。テロリストたちは素人っぽくてミスが多いながらも無防備なホテル従業員や宿泊客たちはなす術もなく殺されていく(でも何人かは脱出できてしまえる)というあたりの妙なバランスは、実話を元にしたものであるからこそだろう。カタルシスのない結末を通じてテロ事件の悲劇性や恐怖、悪辣さというものを学べるという点もこの映画の価値であることは認めざるをえない。しかし、実話を元にしているだけに、ストーリーの展開や起伏は映画としては歪でありテンションやリズムを維持できるものではなくなっている。要するに、途中で飽きちゃうのだ。もちろん、 デーヴ・パテール演じるホテル従業員やアーミー・ハマーを史実以上に活躍させてしまったら実話を元にしていることが台無しになってしまうので、史実の範囲でホテル従業員たちや宿泊客たちの「英雄性」も描きつつテロの悲劇を淡々と描写し続けることしかこの作品にはできないのだけれど…。なんだか総じて「お勉強」のために観る作品であった。

 

●『リズム・セクション』

 

 

リズム・セクション (字幕版)

リズム・セクション (字幕版)

  • ブレイク ライヴリー
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 家族をテロで殺された女性がテロリストたちに復讐するために鍛えてスパイになる、『007』の制作陣が関与しているイギリス映画。

 主演はブレイク・ライヴリーだが、主人公の師匠役であるジュード・ロウを目当てに視聴。ジュード・ロウが女主人公を指導して、その冷徹さゆえに裏切られてしまい、最後は敵対する、というのは『キャプテン・マーベル』と一緒だな。

 がっつり修行はしても、主人公は元一般人なので、そんなに超絶的なアクションもできなければ情に流されてミスをしてしまう、というところがこの映画の個性となっている。性風俗業にまで落ちぶれて見た目も台無しになってしまった「どん底」から這い上がるところも、お人好しさや情の深さが「善性」につながっているという点も、主人公を女性にすることの必然性が感じられてよい。ブレイク・ライヴリーの「体当たり」演技はなかなかの見もの。また、ロックミュージックの使い方に通常のアクション映画に比べて「外し」や「ズラし」が利いていて、そこも印象的だ。

 ……とはいえアクションシーンは地味だし、敵はカリスマ性も異質さもないそこらへんのテロリストなので彼を探し出して始末するというストーリーのメインプロットにも惹かれるものはない。

 ところで、身体と心を許した異性が実は敵側の人物であり、裏切られたと気付いた主人公は容赦なく始末する、というのは女性主人公の作品だとたまに見かけるが男性主人公の作品ではほぼ見かけない展開だ。男性の女性に対する甘さや、女性側のミサンドリー(身体を許した相手にすらうっすらと敵意を抱いてる)に由来するものであるかもしれない。また、テーマにフェミニズムを含めるなら、女性主人公はレズビアンにするかセックスした相手を始末する(つまり、遡及的に「男に身体を許さなかった」ことにする)のどちらかしか認められないのかもしれない。女の人って制限が多くて大変だね。

 

●『ペイ・フォワード 可能の王国』

 

 

 

 2000年制作の「感動もの」な作品。たしか松本人志の『シネマ坊主』で評価が辛く、それでなんとなく敬遠し続けてきたのだけれど、いざ観てみるとなかなか感動できた。

 冒頭に自動車を失った記者が弁護士からジャガーをもらうシーンはファンタジック。そして、ケビン・スペイシー演じる社会科の先生が登場して、「世界を変える」ことを児童たちに命じる、という導入部分はかなり魅力的であり、一気に映画の世界に引き込まれる。

 ハーレイ・ジョエル・オスメントが演じる主人公の男の子が「ペイ・フォワード」の試みをやり始める流れと、彼の試みが成功してロサンゼルスにまで広がっていった後の時間軸で記者が「ペイ・フォワード」を行なった人たちに逆順でインタビューしていってその震源地まで遡っていく流れ、という二つの時系列に組み合わせ方も、映画的にかなり上手で魅力的だ。この時系列の描き方が優れているために、二つの時系列が合流して主人公とその周囲の人物が「ペイ・フォワード」の試みが実ったことを事後的に知ることになるというカタルシスが生まれて、さらにその後に起こる「悲劇」の印象が強くなる。……とはいえ、この「悲劇」はいくらなんでも無理矢理であり、最後に「ペイ・フォワード」に救われたであろう大量の人たちがロウソクを持って主人公の家に集まるシーンはかなり感動的であるとはいえ、映画のストーリーの都合のために主人公の運命が操作されている感は否めない。

 また、ケビン・スペイシーのキャラクターは実に魅力的だが、その恋の相手であり主人公の母親でもあるヘレン・ハント演じるヒロインは、キャラクターの性格や経歴的にも見た目的にもあまりに魅力がなさすぎる。80年代〜2000年台のブロンド女優ってなんか個性がなくてパッとしない人が多いんだけれど、なんでだろう。

『ペンギンが教えてくれたこと』+『ザ・ゴールドフィンチ』

●『ペンギンが教えてくれたこと』

 

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 実話に基づいた映画。タイ旅行に行ったサム・ブルーム(ナオミ・ワッツ)は不慮の事故で下半身不随となってしまい、車椅子での生活を余儀なくされるようになった。夫のキャメロン(アンドリュー・リンカーン)は献身的に彼女を支えるのだが、事故の現場に居合わせた息子のジャン(ジャッキー・ウィーヴァー)は責任を感じて暗い子になっちゃうし、これまで一家の母親としてがんばっていた自分が何もできない役立たずに感じられて、サムはめっきり落ち込んでしまう。しかし、ある日、子供たちが怪我をしたカササギフエガラスの雛を拾ってきて、白黒だから「ペンギン」と名付けて、回復するまで家で保護することになった。当初はペンギンのことを鬱陶しがっていたサムだが、家族が出かけているなか家で車椅子でペンギンとふたりで生活しているうちに、同じ立場なもんだから段々と共感して絆が芽生えていく。そうこうしているうちに、昔から好きだったマリンスポーツを再開するため、カヤックの練習も始める。なんだかんだあってサムは自分の境遇を受け入れて、前向きになっていく……(それでカヤックの世界大会とか障害者サーフィンの大会に出て入賞する、めでたしめでたし)。

 

 困難で恵まれない立場にいる主人公が同じような立場にいる動物と出会い、絆を培って、前向きになって社会復帰する……という点では『ボブという名の猫:幸せのハイタッチ』を思い出させる作品だ。後半のほうでペンギンが他の鳥に襲われる危機感あふれるシーンも、ボブが脱走するシーンを連想させる。動物実話ものはやはり話のメリハリを付けるのが難しいためにこのようなハラハラドキドキシーンを挿入するのだろうが、見ていて気が気でなくなるから止めてほしい(わたしの父親は、このようなシーンがあるからという理由で、動物もの映画を観ないことにしているくらいだ)。

 

 

 

 淡々としており面白さはあまりないのだが、ナオミ・ワッツの演技のすごさも手伝い、感情移入させられるクオリティの高い映画ではある。とくに、前半における、サムが車椅子になって家族の役に立たなくなったことによる「惨めさ」や「悔しさ」、それにより内向的になり自傷的になっていく様子の描き方は見事なもの。ついつい「うわ〜」とか「やめて〜」とか口に出ちゃうくらいにのめり込んだ。

 しかし、実話だから仕方がないとはいえ、ペンギンが登場されてからも劇的に癒されるわけではなく、サムの「回復」はかなりゆっくりしたペースで描かれる。もちろん現実では鳥と仲良くなったところで前向きハッピーになれるものではないんだからリアリティがあって丁寧な作劇といえるし、最後に夫からの「How are you?」に「I`m fine」ではなく「I`m better」と答えるところは深みがあるんだけど、映画的な面白さに欠けるのは否めない。ナオミ・ワッツ以外の役者には存在感がないし。あとこれも実話だから仕方がないんだけど、ブルーム一家がちょっと金持ちすぎて、同情心がやや削がれてしまった。

 

●『ザ・ゴールドフィンチ』

 

 

 

 テロ事件で母を失った一人の男の子(オークスフェグリー/アンセル・エルゴート)と彼がテロの直後に美術館からこっそりと持ち出していたゴールドフィンチが描かれた絵画をめぐる数奇な運命を描いた人間ドラマ。2時間半もあって、テンポは悪い。周囲の人間模様も描きつつひとりの人間の半生を子供時代から丸々描こうとするチャールズ・ディケンズジョン・アーヴィング的な「大河」ドラマ感が強く、長編小説が原作であることがありありと伝わってくる。そして一本の映画としては失敗しているのだが、このテのストーリーが映画として面白く成功することのほうがめずらしい(『ガープの世界』も映画になったらイマイチだったし、『フォレスト・ガンプ』はほんとに稀有な例だ)。

 主人公の大人時代を演じるアンセル・エルゴートと、一時的に彼を引き取る一家の母親を演じるニコール・キッドマンは、さすがに魅力的。このふたりの登場人物はキャラクター性もそれなり複雑だ(片方は主人公だから当然なんだけど)。しかし、脇役たちは、映画のキャラクターとしても深みがないし役者としても浅薄だ。とくに父親とその情婦のキャラクターは「欲にまみれたロクでもない児童虐待をする大人」というだけでしかなく、無理矢理に悪役を作って主人公の苦難を負わせている感じがミエミエで(これもまた悪い意味でディケンズやアーヴィングっぽい)、しょーもない。ヒロインもイヤなやつだし。

 テロで親を失う主人公、という境遇からは『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』を思い出した。あれも露骨な感動ものだったけれど、泣いちゃったなあ。

 

 

 

『ゾンビランド』&『ゾンビランド:ダブルタップ』

 

 

 

 

ゾンビランド』は公開の翌年にDVDを借りて観たから10年ぶり(当時から興味があって劇場で見たかったのだけれど、京都の映画館ではやっていないから梅田まで行く必要があってそれで諦めた思い出がある)。今回は『ダブルタップ』と続けて視聴した。

 

 評判の良い作品であり、一作目と二作目の両方ともゾンビ映画のベストとしてあげられているのをよく見かけるが、10年前の時点から、わたしはこの作品を対して評価していないのに。ウディ・ハレルソン演じるタラハシー のキャラクターは魅力的であり、 ジェシー・アイゼンバーグ演じる主人公のコロンバスが彼と出会って、エマ・ストーン演じるウィチタとも紆余曲折ありつつ呉越同舟という感じで同じ車に乗り合わせる、までのくだりはテンポもよくオリジナリティがあって楽しい。「生き残るためのルール」がテロップで挿入されるくだりも軽快だし、ゾンビ者としてのサバイバル要素や緊張感が失われていないところがキモとなっている。しかし、ビル・マーレイの家を訪ねるくだりからは、悪い意味であまりにコメディに寄りすぎて、ダラダラと弛緩した作品になってしまう。10年前も今回も、遊園地という舞台でクライマックスを迎える頃にはすっかり作品に興味を無くしてしまった。

 惰性で続けて観た『ゾンビランド:ダブルタップ』も、前作とまったく同じく、中盤まではそれなりに面白いんだけれど後半になると弛緩し過ぎてつまらない、という有り様になっている。キャラも無駄に増え過ぎていて、ゾーイ・ドゥイッチ演じるマディソンはおバカでエッチで可愛いけれど、他のキャラは余計に感じられた。

 ゾンビものを題材にしたコメディ映画という点では、『ショーン・オブ・ザ・デッド』のほうがギャグも笑えてテンポも良くて緊張感もあって圧倒的に面白い。『ゾンビランド』の"ゆるい"感じの笑いにはすぐに飽きてしまう。エンディングの後の、ビル・マーレイが登場する「楽屋裏」的なネタもかなりひどいもの。そういう点では、同じくビル・マーレイが出演している、『デッド・ドント・ダイ』とも悪い意味で似通っている*1

 結局のところ、この映画が人気なのは、ウディ・ハレルソンジェシー・アイゼンバーグエマ・ストーンと「映画好き」な人たちが特に好むタイプの俳優を揃えてわちゃわちゃ絡み合わせてコメディをやらせるという、「俳優萌え」を楽しめるからであろう。まあたしかにウディ・ハレルソンが擬似家族の父親役をやるというのは面白いし、ジェシー・アイゼンバーグとの絡みも新鮮で楽しい。でもどうせだったらゾンビ要素抜きにして普通のコメディ映画にしちゃったほうがいいんじゃないかなあ。