THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『善き人に悪魔は訪れる』+『ザ・ハント』+『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク 』

 

●『善き人に悪魔は訪れる』

 

 

 

 あらすじだけを読むと「なんだかありがちだしほんとうに面白くなるの?」という不安感を抱かされるが、格好いい放題やイドリス・エルバという存在感のある主演俳優に惹かれて、視聴。……しかし、あらすじから抱く印象の通り、ありがちでつまらない作品だった。

 悪役が悪人であることは冒頭から明かされているし、それなりに凶暴でそれなりに狡猾ではあるものの、90分の映画の主役を張れるほどの個性は全くない。マジで、ただの「凶悪犯」以外の何者でもないのだ。それに対峙する人妻ヒロインも普通だし、運悪く殺されてしまう女性たちもふつー。死に方もあっけないからグロさもホラーもないし。

 邦題の通りに「善き人」と「悪魔」の対比を描くために人妻ヒロインの善人性を強調すればまだ面白さのある作品になっていたかもしれないが、そんな工夫もされていなくて、ただただフツー。事件が終わった後に、事件の途中で浮気が判明した夫と別れるという展開も「なんだそりゃ」という感じ。

 

●『ザ・ハント』

 

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  • ベティ・ギルピン
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「高慢ちきなリベラルエリートたちが田舎の差別的なレッドネックたちを狩る殺人ゲーム」という、社会風刺モリモリな、デスゲームものをパロディした作品。

 デスゲームが開始して、それなりの美女や美男にスポットが当たって「この人が主人公になるのかな」と思いきや呆気なく殺される、という導入にはかなり惹き込まれる。デスゲームの開始前から悪役たちの存在を描いて「種明かし」しているところも潔い。字幕だと表現しきれていないが、残虐な殺人ゲームを主催しておきながら自分が差別者と認定されることを恐れたり「文化の盗用」とかのポリコレ用語をすぐに口に出すエリートたちの姿も現代的なギャグとしておもしろい。銃を目にした途端にわらわらと群がる田舎白人たちの姿もシュールだ。左右のどちらもジョークの題材にしているのだが、バランス感覚があり、そしてジョークがちゃんと面白いところが優れている。

 ベティ・ギルピンが演じるやたらとパワフルで殺意満々なヒロインはそれなりに魅力的であるが、たとえば彼女がデスゲームをガンガン破壊するといった爽快感のある展開が描かれるわけではなく(途中でエリートたちの大半を殲滅するシーンはあるけれど)、列車に乗ってデスゲームの「会場」から離れて以降の展開は基本的にダラダラとしている。エリートたちの女ボスとの対峙や戦闘シーンも冴えたものではない。この映画の魅力のほとんど全ては前半に収まっており、後半は出涸らしになっていることは否めない。

 ところで、「問題作」と評される本作だが、エリートたちの一人を除けば登場人物は全て白人である点、どちらの陣営も主力は若い女性であり彼女たちの対峙が作品のクライマックスになる点など、アイデンティティ・ポリティクス的な対立構造を煽り過ぎてグロテスクで危険な作品にならないようにするという配慮はきちんとなされていると思う。逆にいえば、そのせいで穏当な範囲に範囲に小ぢんまりと収まっており、物足りなくなっている。たとえば、ヒロインではなく太った田舎白人のおっさんたちのうちのだれかが主役となっていた方が、絵面としてもオリジナリティがあり、そして作品の不穏さも増して面白くなっていたことだろう。

 

●『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク

 

 

 

 

 なんかテレビ放映されていたらしくT Lで感想が流れてきたので、配信で主張。

 以前に見たのはたしか小学生のときで、子どもながらにヒロインにムカついて、次々と恐竜に食い殺されていくハンターたちと、他人を危険に晒してもまったく傷付くことなく守られる主人公陣営との「命の価値」の差に不快感を抱いたが、20年以上経ったのちに観てもまったく同じ感想。感想が変わらなさ過ぎで逆にすごいくらいだ。見直してもなにか新たな発見があるということはまったくなく、とにかくグロテスクに人の命が消費されていく様子を描いただけの、浅薄で下品な作品だと思う。ティラノサウルスアメリカに上陸するシーンにはそれなりにファンタジー性やロマンが感じられるんだけれど。

 スピルバーグは『ジョーズ』のように完成度の高い作品や『ブリッジ・オブ・スパイ』のように感動的な作品も撮れる人物であるが、それだけに、『ロスト・ワールド』や『レディ・プレイヤー・1』のような浅薄で下品な作品を撮っているというのがイヤだ。矜持や一貫性が感じられなくて人間的に不気味であるし、良質な作品のほうで感動的なシーンがあったり人道的なメッセージが強調されていても、「でも『ロスト・ワールド』であんな風に人の生命の価値に露骨な差をつけて描いたやつだぞコイツ」って思い出して不愉快な気持ちになっちゃうのだ。

韓国映画は英語吹き替えで観ることにした(『ザ・コール』)

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 在日アメリカ人であり子供の頃から「家のなかでは英語、外では日本語」という風に暮らしてきたわたしは、逆説的に、語学に関してハンディキャップを持っている。ふつうの日本人であれば中学校から大学まで苦労しながらイヤイヤ英語を勉強させられることで「語学を学習する方法」を身に付けるところ、自然と英語が使えるようになったわたしはその方法を知らないまま成長することになるのだ。なので、大学になってから第二外国語(フランス語)をやらされても、そもそも単語や文法をイチから覚えるという経験がないものだから、単位は壊滅的なものとなってしまった。

 そして、映画の鑑賞においても同様のハンディキャップがある。テレビで流れてきたりビデオ屋で借りれたりする映画の大半って英語か日本語だ。英語の作品を観るときには字幕を付けて見るし、全てのセリフが聞き取れるわけでもないが、それでもだいたいのセリフは理解できる。つまり、字幕だけを目で追って内容を理解するのではなく、「耳」からもかなりの情報が入ってくるのだ。だから字幕では表現しきれないニュアンスや感情も問題なく把握できるし、ずっと画面に目を釘付けにして集中して観る必要はない。

 しかし、フランス語や韓国語の映画となると、字幕をつけて観ざるをえない。洋画が好きで、しかし英語がわからない日本人の多くは「耳からの情報に頼らず、字幕だけを目で追って作品を理解する」という経験を(ハリウッド映画などを字幕付きで観ることで)子供の頃から積んでいるだろうが、わたしはそうではない。なので、ふつうの日本人以上に、英語でもなく日本語でもない映画に抵抗感があるのだ。

 

 

 アメリカ人がすぐに非アメリカ映画をリメイクしたがることについて意識の高い人は揶揄したりポリコレ的な観点から批判したがるけれど、自分の国の映画がハリウッド映画である国とそうでない国とでは他国の映画に対する"慣れ"や"敷居"が違うのは当たり前の話である。自国にある面白い映画の数が限られている日本人や韓国人やフランス人はそりゃ他国の映画を鑑賞する経験に慣れるだろうけれど、アメリカ人からすれば、他国の映画を観る必要ってかなり薄い。だからたまに余所の国がおもしろい映画を作ったなら、リメイクしたほうが、より多くのアメリカ人がその作品に触れられることになるのだ。だってニューヨーカーとかカリフォルニアンとかだったら韓国映画も観にいくかもしれないけれどテキサスの人とか観にいかないでしょ多分。

 

 このブログで非英語・非日本語映画の評価が辛くなりがちなのも、まず鑑賞における集中力や時間(日本語や英語の作品なら家事しながらでも観れるけど、耳で情報が入ってこない作品はそういうわけにはいかない)といった「コスト」が跳ね上がるので、その「コスト」に見合うだけのクオリティやおもしろさを作品に要求してしまう(そして大体においてその要求は満たされない)からである。

 

「じゃあ吹き替えで観ればいいやんけ」と言われたらたしかにそうなのだが、わたしは洋画の日本語吹き替えってマジで苦手だ。どうにも日本の声優の演技が受け付けず、どんな作品であっても、途端にアニメのような安っぽいものとして感じられてしまう。せっかくのフランス映画や韓国映画も、途端に「邦画」になっちゃうのだ。

 しかし、Netflixオリジナルの韓国作品に関しては、日本語版サイトからも英語吹き替えが選択できるようだ。それで、評判の良い『ザ・コール』を試しに英語吹き替えで観てみたら、これがとてもマッチしていた。かわいいかわいいパク・シネが英語でFuck! だとか Bitch! だとか叫んびながら激昂したり慌てていたりする姿にまったく違和感がなかったのだ。声優の演技もぜんぜんヘンではなく、日本語吹き替えに比べてもずっとクオリティが高いと思う。また、だいたいにおいてケレン味が過剰でトンチキな韓国映画の世界観は、アメリカ映画と同じくらいには虚構性が高いので、英語にすれば「洋画」のひとつとしてスルスルと観れちゃうのだ。これなら、今後も韓国映画(やフランス映画や香港映画)は英語で観れば苦手意識を抱かずに楽しんで観れるな…と思ったところ、Netflixでも英語吹き替えが用意されているのはオリジナル作品だけなようであり、気になっている『エクストリーム・ジョブ』にも『EXIT』にも『スウィング・キッズ』にも吹替は用意されていなかった。残念。

 

 というわけで前置きが長くなったけれど、『ザ・コール』、なかなか面白かった。なんといっても主人公のパク・シネが可愛いし、悪役のチョン・ジョンソもエロくてよかった。

「同じ家のなかで10年の時を超えて通じる電話」というタイムトラベル要素を使ってサイコ・ホラーを描くという発想がまず優れている。序盤における虐待を受けている悪役に対して主人公が未来の世界の有様を電話で教えるシーンなどにはタイムトラベルもの特有のワクワク感やファンタジー性があるし、悪役が主人公の父親を助けて良い方向に運命を変える描写を挟みながらも、不穏さを小出しにすることで徐々にホラーへと転調させていく……という構造がかなり巧みに成立している。「未来を変えれる悪役」と「過去に関する情報を把握している主人公」がそれぞれの優位性を活かしながら駆け引きして戦う展開にはSF能力バトルといった趣もあるし、しかしケレン味に振り切らずに恐怖や緊迫感を失わないところも素晴らしい。悪役の母親に関するミスリードも優れているし、気の毒な警官やイチゴ屋さんなどの脇役もなかなかの存在感だ。

 とはいえ、惜しいところもいくつかある。せっかくの「駆け引き」要素も、悪役を爆死させる主人公の策が失敗して以降は失われてしまい、主人公の母親と警官が悪役の家を訪れて以降のクライマックスの展開では「タイムトラベル電話」のギミックがほぼ活かせていない。「そこから逃げて」と喚き続けるだけだったら、10年後の未来から電話をかける必要がないからだ。

 タイムトラベル電話により悪役の助力を借りることで死んだはずの父親を復活させて、火傷も消せたのに、けっきょく父親は悪役に殺されるし火傷も元に戻る、という運命論的な展開はタイムトラベルものの定番ではあるけれど、収まりがよい。そして、諸々の事件をきっかけとして母親のありがたみがわかる、というエンディングも教訓的で、かなりスマートであると思う。

 ……だからこそ、悪役の勝利で終わってしまい主人公の苦闘が台無しになるラストの後味の悪いオチはいらなかった。そもそも主人公は全く悪いところのない善人(そして美人)であるのだから、あんな酷い目にあういわれはない。主人公がこれまでよりもずっとひどい運命に置かれるのに悪役は本来の末路よりもずっと条件の良い未来を手に入れる、というのも理不尽だし、エンディングまで作品に一貫していた運命論にも反しているだろう。細かく考えれば、矛盾点やツッコミもいっぱいあるはずだ。

 ジェイク・ギレンホール主演のエイリアン映画『ライフ』のオチについても思ったけれど、いくらホラー映画だからといって、「後味の悪いオチを描かなければならない」と義務付けられているわけではないのだ。後味の悪いオチになることが作品のストーリーやテーマ的に必然性のあるホラーもあるだろうけれど、作品で描いてきたテーマや主人公たちの苦闘やそれによる感動を台無しにするタイプのオチには、「ホラーだから最後は胸糞悪くしなきゃ」という手癖や惰性が感じらレてしまうのである。

 

 

 

『007』シリーズ:『ロシアより愛をこめて』+『カジノ・ロワイヤル』+『慰めの報酬』+『スカイフォール』

 

 

 

 

 

 わたしは『007』シリーズの熱心なファンではなく、劇場で観たのもこの記事を書いている時点での最新作の『スペクター』のみ。『スカイフォール』が公開当時に騒がれていたのだが、当時はまだアクション大作映画を個人的に面白いものだとは思っておらず、またDVDで観た『カジノ・ロワイヤル』がどうにもつまらなかったので、スルーしてしまったのだ。しかし、『スペクター』が面白かったので直後にDVDで『スカイフォール』を観たらこれも面白く、内容的にも「劇場で観ればよかったな…」と後悔したものである。

 旧い作品に関しては大学の図書館にDVDが揃っていたので、『ゴールドフィンガー』を観たらまあまあ面白く、それならばと続けて『ダイヤモンドは永遠に』を観たらあまりに締りがなくダラダラとつまらない作品だった思い出がある。ただし、これはほぼ10年前の記憶だ。

 

 そしてPrime Videoでシリーズ全作が一挙無料開放されたということで、かなり久しぶりに『007』を観てみることにした。

 まず名作と名高い『ロシアより愛をこめて』を観てみたが、これはちょっと古過ぎて、現代人に耐えられるものではない。ショーン・コネリーは毛深過ぎて不潔感が漂うし、ボンドガールのダニエラ・ビアンキがものすごく美人でエロいことは認めるが、人格や人間性というものを感じられるキャラクターになっていない。トルコかどっかでエロい格好した女の人が踊る描写もオリエンタリズムとセクシズムの抱き合わせでふつうに不愉快。もちろん昔の映画だから仕方がないとは言えるのだが、時代制約的な偏見描写やステレオタイプ描写が許されるのは、それを補って余る面白さが作品にある場合に限る。しかし、ストーリーはトロくてアクションはモタモタしていて敵はアホみたいで、そのくせ各陣営の関係性は妙に複雑でと、いいところがまるで見つからない(列車のなかで襲ってくる金髪の敵キャラはそれなりに貫禄があったと思うけれど)。これが名作と評されるのは、「公開当時にしてはすごい」というボーナスによるものでしかないと思う。

 

 後日、『カジノ・ロワイヤル』から『慰めの報酬』に『スカイフォール』と、『スペクター』を除くダニエル・クレイグ版ボンドを一気に視聴。

 しかし改めて見たら、どの作品もどうにも楽しめきれず、惜しさが残る。『カジノ・ロワイヤル』に関しては、マッツ・ミケルセン演じる敵キャラはキャラクター性が濃くて格好良いし、エヴァ・グリーンが演じるボンドガールも実に魅力的。しかし、マッツ・ミケルセンが途中で退場してからは緊張感が途切れて締まりのない展開になるし、最後に描かれるエヴァ・グリーンの裏切りもどうにも尺が長くて押し付けがましい。青臭いボンドの姿は新鮮だし、作品がやろうとしていることもわかるんだけれど、2時間半もかけて描くような内容ではないと思うのだ。

 カジノにおけるポーカーのシーンも、すぐにトラブルが発生したり別の舞台でのアクションシーンが挿入されたりするせいで、ゲームの展開が追いづらいし、「手に汗握るギャンブル」としての純粋な面白さは描けていない。そして、『カイジ』や『嘘喰い』を読んできた身としては、これは実に物足りない。なんか「無駄に展開を複雑してあとは緊張感あふれる雰囲気を演出すれば、それでギャンブルを描けた感じになるだろう」といった甘えを感じるのである。

 

慰めの報酬』は世評の通り大したことのない作品だ。なんといっても、マチュー・アマルリック演じる敵キャラクターがあまりに小物っぽくてしょぼ過ぎて、「こいつは中ボスだろうから大ボスはいつ出るんだろう」と思っていたら出てこなくで逆にびっくりしたし、俳優としてもちょっと顔に締まりがなくて前作のマッツ・ミケルセンの後にこいつなもんだから余計に「なにこれ?」感が漂う。とはいえ、オルガ・キュリレンコ演じるボンドガールはエロいしキャラクターも活き活きしていて素敵。ジェマ・アータートン演じるストロベリー・フィールズが一瞬にしてボンドに落とされてしまうチョロさも、それが仇となって殺されてしまう気の毒さもなかなか印象的だ。

 なにしろ上映時間が短いし、ストーリーもシンプルなので集中力も入らず、観るのにエネルギーがいらない点も悪くなかった。

 

 そして『スカイフォール』。最初に観たときは面白かったこの映画も、改めて観てみると、ハビエル・バルデム演じるラウル・シルバの動機がショボい私怨に過ぎて、ストーリーの世界観がかなり狭くてしょうもなく思えてしまう。ジュディ・デンチ演じるMとボンドが道連れになるくだりはシリーズの他作品がないような独特さもあるし、後半の展開は意外かつスリリングなものであることはたしかだし、ベレニス・マーロウ演じるボンドガールがあまりにも呆気なく退場するシーンはかなり衝撃的だし、ナオミ・ハリス演じるマネーペニーもいいキャラしている。だけれど、たとえば「悪戯」や「演出」が好きなラウル・シルバにはジョーカーやレックス・ルーサーやグリーン・ゴブリンといったアメコミ作品のヴィランを彷彿とさせて、それなら荒唐無稽に振り切ったアメコミヴィランのほうが魅力的だ。世界を巻き込んだ風でいながら身内同士の私怨による内輪揉めでした、という展開も、悪い意味で実にアメコミ映画っぽい。

 つまり、『007』シリーズを観ていると、「アメコミ映画がここまで発達した現代ではもういらないんじゃない?」と思えてしまうのである。「古き良きスパイ映画」としての洒脱感や面白さは『コードネームU.N.C.L.E』のほうがずっと優れているし、かといって現代の世界情勢にマッチした展開が最近の007作品でやれているというわけでもないように思える*1。『カジノ・ロワイヤル』以降は「青臭さ」や「人間味」や「成長」を描いてきたといっても、結局のところジェームズ・ボンドはかなり虚構性が高いうえに超能力(女を一瞬で落とせること)すら持っている荒唐無稽なキャラクターなのであって、じゃあバットマンキャプテン・アメリカですらリアルな人間として描写できるようになった現代においてボンドなんて中途半端なキャラクターをわざわざ描く必要はあるのか?という気がしてしまうのだ。

 もしかしたらテーマ設定の仕方や画面の構成、アクションシーンの描き方などに『007』シリーズでないとできない、唯一無二のオリジナリティや一本筋や志が含まれていたりするのかもしれないが、わたしにはそれが見えてこなかった。

 

 とはいえ、ひたすら女性が甘やかされて男が貶められる昨今のポリコレ映画情勢において、描写の面でもテーマの面でも様々なアップデートをはかりながら、それでもなお「女はボンドにコロッと落とされるものであり、二人に一人は死ぬものである」と言わんばかりのミソジニックとも言える展開を続けているところには、『007』のオリジナリティと価値があると言えるかもしれない。なんだかんだ言ってこの「様式美」には面白さがあるし、ある種のリアリティだって含まれているのだ。逆に言えば、それをなくしてしまったらいよいよ持って『007』シリーズを作る価値はなくなる。となると、ボンドを黒人やアジア人にすることは全く問題ないし、両性愛者や同性愛者にしたらむしろさらに深みが増しそうだが、女性にだけはしてはいけないだろう。

 

 

『闇はささやく』

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 いかにもつまらなそうな作品だったけれど、わたしの大好きなアマンダ・セイフリッドが出演しているので視聴。予想通りにつまらなかったし、後半は意味不明な領域に入っていたけれど、アマンダ・セイフリッドが主婦らしい素朴な格好をしているところや、幽霊屋敷で起こる怪奇現象にビビっているところは可愛らしくてよかった。あと後半で若い男の子と「おねショタ」的なエッチな展開になるところは思わず「うらやましい」ってつぶやいちゃった。

 ジェームズ・ノートンが演じる旦那は不誠実さと小物っぽさと不気味さが折り混じったネットリしたイヤ〜な男という雰囲気がすごく、作品の狙い通りに、冒頭から生理的不快感を抱かせてくれる。また、数々の映画で「不倫」が描かれるなかでも、アマンダ・セイフリッドという美人妻がいてしかも娘がすぐに近くにいるというのに自分の生徒に色目をつかって不倫を誘い、あまつさえその誘いが失敗して生徒にたしなめられる、というあまりにも情けなくてそしてきっちり不道徳的で不愉快な「不倫」の描き方はかなり強烈で印象的。「不倫って絶対ダメだな」としみじみと思わせてくれるので教育的で素晴らしい。

 話の内容としてはアメリカ映画によくある「幽霊屋敷」もので、ホラーというよりもオカルト要素を重視しているために怖さもほとんどないが、アメリカらしい「伝統」の重んじられ方は面白かったし、降霊術が身近にあるという時代性もちょっと独特でよい。下記の記事で論じられているように、スウェーデンボルグやジョージ・イネスなどをはじめとする思想や芸術や文学の世界と接続されている、「文化的」な映画であることは間違いないだろう。映画を貫いている独特の死生観のために、アマンダ・セイフリッドが死んじゃっても悲劇ではないというところも、後味が悪くなくてありがたい。

 ……とはいえ、オリジナリティはありながらも、そのオリジナリティを活かせるほどに魅力的な脚本にはなっていないし、画面的にも凡庸であったりチープであったりする。つまり、この作品が目指したがっている「高尚さ」に、作品そのものの力量が追いついていないのだ。

 

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『フィアー・ストリート』三部作

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 一作目を観たところで男性キャラクターの扱いの悪さとレズビアン推しにイヤな予感がして、検索したところ案の定、「ホラー映画のミソジニー性や異性愛規範」を批評的に反転させてシスターフッドフェミニズムを描いているなんたらかんたらな作品であるというレビューが出てきたり「百合厨」な男女が喜んでいるツイートがいっぱい見つかったので、ムカついたので二作目と三作目はダイジェストで済ませてしまった。

 ティーン向け映画であることを差し引いてもほんとくだらない内容だし、「ホラー映画のミソジニー性や異性愛規範を批評的に反転させた作品」なんて『ハッピー・デス・デイ』シリーズや『ミッドサマー』などをはじめとしてもはやいくらでも作られているんだから新しくもなんともないし志も感じられない*1。『イット・フォローズ』のほうが500倍は批評的*2。というか、イマドキは、「ホラー映画のミソジニー性や異性愛規範を批評的に反転させた作品」を作るだけで物語や作品を吟味して批評する能力を持たないフェミニストや百合厨がホイホイ釣られて好意的に批評してくれるなんてことは火を見るよりも明らかなんかだから、逆に言えば他のどんなタイプのホラー映画よりも安パイを狙った、考えもなければ矜持も持ってない作品であるだろう。

 言うまでもなく、『フィアー・ストリート』を褒めている連中にはマーケティングにまんまと釣られときながら自分では「ミソジニー性」とか「異性愛規範」について批評的に考えられていると思っているアホしかいない。とはいえ、ホイホイ褒めるアホが大量にいるからどんな駄作でも許されて一定の評価は保証されることを見越したうえで、ダラダラと内容のない三部作を作ってしまい、それで当初の狙い通りに評価されているという戦略性や姑息さには感心すべきところかもしれない。

 というわけでこの映画を観ていてわたしがイライラしたのは作り手に対してでもなければ登場キャラクターに対してでもなく、マーケティング目的で安直に大量生産されていく「シスターフッド」に感動や感心をしてしまうアホどもに対してである。自分の価値観と気持ちを安売りする前に、せめて脳みそを働かせてから、感動するかどうかを判断してほしい。

『アウトサイダー』

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『KATE/ケイト』のついでに、「欧米人の監督が作って欧米人を主役とした、日本を舞台にしたヤクザもののNetflixオリジナル作品」である『アウトサイダー』を鑑賞*1。しかし、『KATE/ケイト』における日本がスチームパンクでハデハデのトンチキであるのに対して、『アウトサイダー』における日本は戦後の旧い時代ということもあって色味が薄く暗く生々しくてリアリティがある。

 ストーリーとしても、実にまじめに「ヤクザもの」をやっているという感じ。仁義もしっかりと描かれており、『仁義なき戦い』などよりもずっと湿っぽくてロマンチックでかつ淡々としている。抗争の描写も地味。なので、まあ、作品としてのオリジナリティはなく、面白くもない。

 主演であるジャレッド・レトの年齢不詳の怪しさや、妙に日本のヤクザの世界に溶け込めている奇妙さ(ジャレッド・レトって人種すらちょっと「不祥」感がある)、ジャレッド・レト浅野忠信との盟友感、お相撲さんやストリッパーなどのオリエンタル感を楽しめればいいというところだろうか。飲み屋でジャレッド・レトが面白くないジョークを英語で披露して、浅野忠信が日本語に訳した後に周りの人たちに笑いを強要するシーンがいちばん面白かった(その前にデブのヤクザが披露した「イモ虫、そしてイモ虫!」の芸はいつかわたしもやってやろう)。

 とはいえ、白人男性の主人公が日本人たちから散々に罵倒されて排除される姿は、映画ではほとんど見かけることがないものなので新鮮だ。「血」でつながるヤクザだからガイジンが疎外されるのも仕方ないと思うけれど、ヤクザじゃなくてふつうの白人男性が日本社会から疎外される姿を描いた作品なら(白人女性ならもうありそう)、意義や面白さもありそうなものだ。そういう作品もいつか誰かに撮ってほしい。

『マインドハンター』

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 1960年代末〜1970年代初頭を舞台にして、猟奇殺人者や連続殺人鬼たちの「プロファイリング」を行うFBI行動科学班の黎明期や創設当初を描くドラマ。半年以上前にシーズン1の途中まで観て中断していたのだが、再開するとシーズン2の最終話までのめり込んで観ることができた。

 

 設定からついつい「ミステリー」作品だと思ってしまいがちだが、正体不明の犯人をプロファイリングで捜査して特定する、という展開が出てくるのは各シーズンでほとんど一度だけ(シーズン2の終盤は「捜査」パートが主となるけれど)。それよりも、エド・ケンパーやチャールズ・マンソンや「サムの息子」に「キャンディ・マン」といった名だたる殺人鬼たちとの緊張感あふれる面会シーン、そして行動科学班が殺人者たちに関するプロファイルの「理論」を徐々に成立させていく過程のほうが見ものとなっている。

 

 つまり、この作品は「刑事ドラマ」というよりも「お仕事ドラマ」に近い。才能と個性に溢れる人物たちが、それまでに存在しない職種をゼロから手探りで築いていく過程が、とくに前半における『マインドハンター』の面白さだ。そのために、上層部の無理解や予算の不足などでやるべきことができないというもどかしいシーンもあるし、そのなかで成果を出しつつ徐々に認められていくというサクセスストーリーの要素もある。心理学などのアカデミズムが必要とされる場面も心憎いし、部屋の狭さや備品といったものに関する他愛のないやりとりは実に地に足がついている感じがする。

 この「地に足がついている」というところもポイントで、題材が題材なだけに常に不穏な雰囲気(とBGM)が漂っていながらも、直接的な犯行シーンや血や死体といったグロテスクなものが描かれることはほとんどない(ほとんどのエピソードの冒頭で思わせぶりに登場する「BTKキラー」のシーンについても、彼の犯行の直前や事後の場面が描かれても、犯行そのものは描かれないのだ)。ほとんどの視聴者は当初はグロテスクシーンや猟奇的なシーンへの好奇心に駆られて見始めるだろうから、戸惑ってしまうところである。

 

 しかし、「お仕事ドラマ」としての『マインドハンター』は実に面白い。その魅力の大半は、レギュラーメンバー三人のキャラクター性と彼らを演じる俳優のおかげであるだろう。

 主人公であるホールデン・フォード(ジョナサン・グロフ)は、現代ならネットで連続殺人鬼の紹介サイトでも立ち上げていそうな「殺人鬼オタク」そのものだ。本人も人を殺していそうな冷たく暗い顔をしているのでシーズン1の時点では不気味さも漂うが、段々とオタクとしての本性が露わになっていき、それに伴い視聴者も彼に好感を抱けるようになる。チャールズ・マンソンに会えるとなったときのミーハー的な喜び用は可愛らしいし、パーティーでも周りの反応を気にせずに自身のプロファイリング理論を語り続けてしまう「空気の読めなさ」はまさにオタクそのもの。自己中心的で人の心がわからないために周囲からも嫌われることが多いが、それについて本人はとくに気にせずに淡々と自分の理論の完成を目指す姿にはヒーロー性もある。この欠点と魅力が表裏一体となった複雑なキャラクター性の描き方は、尺の長いドラマでないとできないものであるだろう。

 ホールデンの相棒となるビル・テンチ(ホルト・マッキャラニー)は、両津勘吉のごとき角刈りが似合う、昔ながらの「刑事」といったキャラクターだ。ホールデンに振り回されたり呆れたりしながらも常識人として面会を補助したり渉外を担当する彼のキャラクターは、比較的ありがちでながら、安心感がある。シーズン2における「養子にとった息子に犯罪性向があるかもしれない」ということで苦悩したり妻との関係が冷めたりするくだりはかなりどうでもよかったけれど……*1

 アカデミシャンとしてFBI行動科学班に協力するウェンディ・カー博士(アナ・トーヴ)も、現場における実用的な技術としてのプロファイリングを追求するホールデンやビルを相対化する立場として存在感を放っている。三人がそれぞれの価値観や考え方に基づきながら意見を出しあってプロファイリング理論を洗練させていく流れにはワクワク感があるし、当初は博士らしく「頭でっかち」であったウェンディの考えが徐々に柔軟になり、それに伴って人間味と魅力が増していく展開もうまい。彼女が同性愛者であるという要素も、当時の時代性のために公にできないという苦悩が表現されるという点で作品内で描かれる意義が明確であるし(ホールデンやビルですら無理解であろうことは察しがつく)、チームメイトたちに秘密を抱えざるをえない彼女であるからこそバーテンダーの女性との恋愛も応援したくなってしまう。子供っぽい性格のホールデンが「かすがい」となってビルと盟友的な関係になるくだりもリアリティがあってよい。

 

 いまいち見せ場がなくて気の毒な立ち位置になっている四人目の行動科学班員である信心深くてクソ真面目なグレッグ・スミス(ジョー・タト)、野心家のボスであるテッド・ガン(マイケル・サーヴェリス)、アトランタでの面会と捜査を積極的に補助してくれるジム・バーニー(アルバート・ジョーンズ)など、サブキャラクターも個性がはっきりしていて魅力的だ。

 

 そして、「プロファイリング」を題材としていながら、それを万能のものとして描かず、曖昧さの残る不確かな理論として描くところには、この作品の誠実性や知性があらわれているだろう。そのために「影に隠れる犯人の秘密を暴いて逮捕してスッキリ解決」というミステリーや刑事ものとしての定番の面白さは失われているが、「ほんとうに彼が犯人だったのか?」「結局のところ犯人が抱えていた心理とはなんだったのか?」という謎やモヤモヤ感が残り続けることで、独特の視聴感が抱けるのである。

 特にシーズン2の最後で、黒人少年連続殺人事件について「連続殺人鬼は自分と同じ人種しかターゲットにしない」という理論に基づいてホールデンがかたくなに「犯人はKKKではなく黒人だ」と主張し続けるくだり、そして実際に最終的に黒人男性を逮捕するくだりは複雑で面白い。わたしも最初に見たときは「ほんとうにこいつが犯人なのか?」と疑ってしまった(その後に実際の事件に関する事実などを調べると、捕まった人が犯人でほぼ間違いないようだけれど)。「プロファイリング理論の"人種差別性"を糾弾する」といったポリコレ的なお行儀の良い描写だともとらえられるが、そうではなく、現地の行政や被害者遺族が政治的発想や個人的感情のために真犯人をとらえられないなか、ただひとりホールデンだけが科学に基づいて真実を直視しているのに、それが周りから理解されずにせっかく犯人を捕まえても恨み言を浴びせられてしまう世知辛い描写……といった風に捉えることもできる。この曖昧さや清濁が混同している世界観は、映画や小説でもなかなかお目にかかることのできない、かなり独特で高次元のものだ。

 

*1:同じテーマを扱った『ジェイコブを守るため』を観た後なので、中途半端にしか触れられないテンチ家のエピソードがやたらとつまらなく感じた。

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