THE★映画日記

映画(たまに漫画や文学)の感想と批評、映画を取り巻く風潮についての雑感など。

『アメリカン・スナイパー』

 

アメリカン・スナイパー(字幕版)

アメリカン・スナイパー(字幕版)

  • 発売日: 2015/06/10
  • メディア: Prime Video
 

 

 このあいだ『ミリオンダラー・ベイビー』を再視聴したら以前観たときよりもずっと面白く感じられたのだが、同じイーストウッド監督の『アメリカン・スナイパー』については、公開当時に劇場で観たときは感心できたのだが改めて観てみるとどうにも退屈だった。

 なにが退屈か考えてみると、これを言っては身も蓋もないが、イラク戦争(やアフガン戦争)などのような「中東」を舞台にした戦争って、そもそも映画の題材とするには「映えない」のだ。

 ジャングルを舞台にしたベトナム戦争や太平洋戦争のようなワイルド感や恐怖感もなければ、雪が降っていたり塹壕を掘っていたりするヨーロッパ戦線のような荒涼感や美しさもない。また、味方(アメリカ軍)と敵(現地の残存戦力たち)の戦力が違いすぎて、戦闘はいつも散発的でパッとしないものになる。そこで起きるイベントも「味方かと思っていた現地人が敵でしたが、なんとか事なきを得ました」みたいな、いまいち煮え切らないものでばかりあったりするのだ。そもそも勝利条件も曖昧であったり戦争の大義自体が往々にして疑われたりしていて、そうなると作品としてもスッキリさせたり明確な筋を与えたりすることが難しくなって、その曖昧さや五里霧中感そのものを作品に昇華しようとする試みもあったりはするのだが、まあうまくいくことは稀である。

 だから、『ハート・ロッカー』にせよ『アメリカン・スナイパー』にせよ、爆弾処理係であったりスナイパーであったりの個々の兵士の役割や内面に焦点を当てることでサスペンス感やドラマ性を出そうとはするのだが、それにも限界がある……という感じだ。

アメリカン・スナイパー』では、二度ほど強調されることになる「爆弾とかバズーカとかを持った子供を撃つかどうか」という葛藤のドラマと、「虐殺者」(ミド・ハマダ)とか「ムスタファ」(サミー・シーク)とかの"敵役"を主人公のクリス・カイル(ブラッドリー・クーパー)が打ち倒せるかどうか、という戦闘のドラマが強調されることになるのだが……後者のドラマについては事実と違うことは確かであるし、前者のドラマも実際にあったことかもしれないがどうにも作り物っぽさというか古典的という感じが漂う。

 主人公クリスの英雄性を強調する作劇であるためにそのほかのアメリカ兵は完全に彼を引き立たせる脇役でしかなく、彼らがムスタファに狙撃されたところで観客としては「あ、死んだ」というくらいしか感情が湧かない。そのため、せっかく"友の仇を討つ"という要素があるのにイマイチ燃えるものがない、というところも問題だろう。

 

 とはいえ、『アメリカン・スナイパー』ではイラク戦争というアメリカ史のなかでも類を見ないくらい大義をかけた戦争を扱いながら、戦争のシーンでは主人公であるクリスの内面に寄り添った作劇にすることで「祖国を傷付ける蛮人たちに対する復讐」とか「"番犬"として"狼"をやっつける」とか「戦友の仇討ち」というドラマ性を与えることで、戦場が映されている間はおおむねスカッとする物語になっている。……しかし、戦場からアメリカに帰還している場面では、妻のタヤ・カイル(シエナ・ミラー)の視点も交えることで戦争のトラウマに苛まれて徐々に人間性を失っていくクリスの負の側面が強調される。この、戦場が「正」で日常が「負」であるという逆転構造により、「戦争は生き残ったものの心を壊す」といった『ディア・ハンター』的なテーマが強調される……というのはなかなか独特だ。

 俯瞰的に見れば、イラク戦争でのクリスの活躍などの戦争を肯定している部分はあくまで「クリスの視点から見た物語」と括弧に入れられているのに対して、PTSDや後遺障害に苛まれるクリスやそのほかの兵士たちの苦悩や狂気といった戦争を否定している部分はより客観的で広い視点から描かれているので、作品としては反戦的なメッセージを放っているとは言えるだろう。

 ……だが、たとえば冒頭でクリスの父親が息子たちに放つ「羊、狼、番犬」の用語を用いた素朴で幼稚な正義論、それに裏打ちされた戦争に行く前からクリスが抱えていた善悪二元論愛国主義までもが否定されているわけではない。というか、そこはむしろ肯定されているような気すらする。

 たしかにクリスは戦争によって人間性を失っていったが、もとからちょっとヤバいやつではあっただろう。まあそもそもある程度ヤバかったり単純であったりしないとネイビー・シールズに入って英雄になれたりしないものではあるだろうが……*1。そこのヤバさをあえて否定せずに寄り添って赤裸々に描いたことは立派であるのだが、しかし、この作品が「保守」や「右翼」の立場にあることは疑いようもないと思う。実際の映像が使われた、エンディングの葬送の場面における溢れんばかりの星条旗が、それを象徴している。反戦映画であるからといって、反軍隊映画や反国家主義映画であるとはかぎらない、ということなのだ。

 

*1:そういえば、クリスよりはずっとマシであるとはいえ、リチャード・ジュエルもなかなかヤバい人物ではあった。

『ソーシャル・ネットワーク』

 

ソーシャル・ネットワーク (字幕版)

ソーシャル・ネットワーク (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 2010年の劇場公開当時以来なので、ちょうど10年ぶりの再視聴。フィンチャーの作品は『セブン』にせよ『ゴーン・ガール』にせよ再視聴してみると「こんなに面白かったんだ」と驚かされているのだが、この『ソーシャル・ネットワーク』もかなり面白かった。

 主人公であるマーク・ザッカーバーグジェシー・アイゼンバーグ)の天才性と人間的な問題点や欠点が強調される作劇でありながらも、「隠キャ」らしくひねくれて陰湿であるのに明け透けという奇妙なその言動は人間味も魅力も感じさせてくれるものである……という絶妙な人物描写がウリの作品だ。

 そして、ザッカーバーグの元親友でありながらも一番の"被害者"であるエドゥアルド・サベリン(アンドリュー・ガーフィールド)も、"天才"であるザッカーバーグに対する"秀才"として、観客を感情移入させて物語に惹き入れる役割を全うしている。『アマデウス』におけるモーツァルトに対するサリエリ的な立場というか、主人公以上に観客から好感を得られる"おいしい"ポジションのキャラクターであるだろう。才気煥発っぽくはあるが見るからに気難しくて人好きのしなそうなジェシー・アイゼンバーグの顔付きに対する、どう見ても優しくて真面目だけれど気は弱くて押しも弱そうなアンドリュー・ガーフィールド、というキャスティングも素晴らしい。そもそも二人とも全くマッチョでもなければ「美青年」というレベルにも至らず、こういう立ち位置の若手俳優自体が珍しいものであるのだが、このキャスティングこそが『ソーシャル・ネットワーク』を成功させた秘訣であることは間違いない。

 双子のウィンクルボス兄弟(アーミー・ハマー)やショーン・パーカー(ジャスティン・ティンバーレイク)といった脇役陣もかなりいい味を出している。特にウィンクルボス兄弟は物語的にはザッカーバーグの踏み台としての役割しか持たないのだが、Facebookのアイデアを奪われた後も未練がましくザッカーバーグにやり返そうとする彼らの姿は、本編とは全く関係のないボート競技のシーンの出来の良さと相まって、強く印象に残る。ウィンクルボス兄弟の存在によって「ジョック」に対する「ナード」の復讐、という学園もの映画の古典的な要素が含まれていることもミソだ。

 また、ザッカーバーグの元恋人であるエリカは、文化的で知的なイメージの強い(つまり、いかにもザッカーバーグのようなオタクが好みそうな)ルーニー・マーラーが演じているおかげで、出番は少ないながらも強烈な説得力と存在感を放っていると言えるだろう。

 

 Facebookというすごいプラットフォームや大企業の創始者を主人公とした物語であり、ザッカーバーグ自身も天才肌という風に描かれながらも、社会的地位への渇望や自分をフった女を見返したい・取り戻したいという卑俗なモチベーションを物語の軸としているところが、この作品を凡百の伝記もの映画からは異質なものにしているポイントだ。

 冒頭に女子の顔を比較してランキングするサイト(フェイススマッシュ)を作るシーンや、エリートたちの社交クラブに対するザッカーバーグエドゥアルドの憧れが強調されているところなど、『ファイト・クラブ』と同じように「ミソジニー」や「ホモソーシャル」が関わってくる作品であることはいうまでもない(むしろ『ファイト・クラブ』の裏返し的な作品でもある)。……ただし、2010年という時代柄であること、また社会問題や規範意識にあまり関心のないデヴィッド・フィンチャー監督の作風のおかげもあり、登場人物たちのミソジニーホモソーシャル意識をさほど批判的・否定的に描いていないところもポイントだ。なんだかんだで、観客はザッカーバーグに共感して同情もしてしまうのだから。

 実際、どこの国でも男性の社長なり成り上がりなりエリートなりの大半は多かれ少なかれミソジニーホモソーシャル意識を抱えているものだろうし(フェミニズム意識が高かったりホモソーシャルから距離を置いていたりする男性が出世できるイメージはあまりない)、そういうのは彼らの世界観や人生に深く根を張って取り除くことができないものである。彼らを物語の題材にするときにそれを否定したり批判したりするのも悪くないだろうが、"個人"の人生や生き方に焦点を当てる作品を作るのであれば、安易に批判や否定はせずに同情的・共感的に描くほうが、むしろ深みのある作品になるというものであろう。だって、実際に彼らはそういうミソジニーホモソーシャル意識を抱えている(そして、抱えたまま成功してしまっている)のであり、それが事実だったら否定してもしょうがないのだ。

ひとこと感想:『メアリーの総て』&『ケーブル・ガイ』

 

●『メアリーの総て』

 

メアリーの総て(字幕版)

メアリーの総て(字幕版)

  • 発売日: 2019/05/21
  • メディア: Prime Video
 

 

 わたしが学部生時代には英米文学を専攻していたことは『ストーリー・オブ・マイ・ライフ/わたしの若草物語』の感想で書いたが、アメリカ文学のゼミに入っていたとはいえ、イギリス文学の授業ももちろん受けていた。

 そしてメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』も洋書購読の授業で読んだものだ。原書は古過ぎて学部生レベルの英語力じゃ難しいということで、授業で扱ったのは英語の教材用の簡易版ではあったが、授業とは別に邦訳版も自主的に読んでいた。そして、およそ200年前の作品にもかかわらず、『フランケンシュタイン』には感情移入して感動してしまったものである。当時は20歳でまだまだ不器用で繊細だった頃であり、周囲との人間関係もうまく行かず常に孤立感を抱いていたからこそ、"怪物"の孤独や絶望に共感することができたのだ。

 

 というわけでこの『メアリーの総て』も公開当時から気になっていて、今月からNetflixで配信開始ということでワクワクして観たのだが、まあつまらない。雰囲気としては『エミリ・ディキンソン:静かなる情熱』に近いが、あっちも退屈だったけどこちらは輪をかけて退屈だ。

 メアリー・シェリー(エル・ファニング)は、フェミニストである母親のメアリ・ウルストンクラフトと、アナーキストである父親のウィリアム・ゴドウィン(スティーヴン・ディレイン)の血を引くだけあって、旧弊的な規範や価値観に縛られるのとを拒んで自由を追い求める性向の持ち主だ。なので、父親の忠告も聞かずに、妻子ある詩人のパーシー・シェリー(ダグラス・ブース)と駆け落ちしてしまう。しかし「自由恋愛」(イマドキの言葉だと"ポリアモニー"かな?)なんて男にとって都合の良い思想である。案の定、夫のパーシーは他の女にも手を出しまくる、無責任なクズ駄目男だった(責任のあるまともな人間ならそもそも妻子を捨てるはずがない)。自分の友人が夫にちょっかいを出されて、逆に自分は夫の友人に手を出されてしまうメアリーは、後悔したり悩んだりする。そんなある日、『フランケンシュタイン』(や『ドラキュラ』)が生み出されるきっかけとなった、かの有名な「みんなで怪奇話を披露しよう」の一夜が訪れて……。

 要するにメアリー・シェリーの周りはクズ男ばっかりだったけどそんな逆境だからこそ『フランケンシュタイン』という傑作が生まれました、彼女の業績も危うく夫に奪われてしまうところだったけどナントカなりました、というお話である。

 しかし、当時の女性に対する抑圧とか旧弊的価値観とか時代的背景とか色々を考慮しても「妻子ある男と駆け落ちなんかしてもロクなことにならないのなんて火を見るより明らかでしょ」という感情が強過ぎて、メアリーに共感することが全くできない。だからぜんぜん面白くなかった。

 作品としてはメアリーの周りの男性を全員クズとして描くことで「いくら自由恋愛とか言ったり当時としては先進的だったとしても男なんてみんなこんなもんよ」というメッセージを自覚的に放っていて、それはいいのだが、じゃあそんなクズにひょいひょい付いていくメアリーの愚かさとか浅はかさとかももっと強調してほしいものである。いや、当時の彼女は18歳なんだから、愚かで浅はかであるのは当然だろうし、それを非難するのは酷かもしれないけれど……。

 また、わたしはどうにもエル・ファニングという女優が好きになれない。『500ページの夢の束』といい『ネオン・デーモン』といい『孤独なふりした世界で』といい、どの映画でも繊細で内向的で傷付きやすい女性を演じている女優であり、実際に繊細で内向的で傷付きやすそうな顔をしているのだが、そういうところが苦手なのだ。

 

●『ケーブル・ガイ』

 

 

ケーブルガイ (字幕版)

ケーブルガイ (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 

 ジム・キャリーサイコパス傾向のある粘着気質なケーブル・ガイ(テレビのケーブルを繋げる仕事をしている人)を演じるブラック・コメディ映画。

 サイコなストーカーものであるが、男性が男性に粘着するという設定は新鮮だ。『ザ・ルームメイト』『クロエ』のように、女性が女性に粘着する、というのは多いのだけれど。

 とにかく"ゆるい"映画であるが、ジム・キャリーというスターを筆頭に主人公役のマシュー・ブロデリックや友人役のジャック・ブラックなどのコメディ俳優が多数出演していて、けっこう贅沢。ジム・キャリーの無茶苦茶な演技も面白くて、気軽に笑って観れる映画だ。ふつうサイコパスものやストーカーものというと悪役は「知的」であったり「計算高い」雰囲気が漂っているものであり、実際にこの映画でも悪役のケーブルガイはけっこう狡猾な計画も実行したりしているのだが、根本的には粗野でアホそうな見た目や振る舞いやキャラクター性をしている、というところは新鮮である。

 とはいえ、だいたいのコメディ映画がそうであるように、この作品も途中からグダグダしてしまって退屈になる。ケーブルTVを通じて観た名作映画のセリフをケーブルガイが引用したりパロディしたりするシーンもしつこい。途中で下品で生理的に不愉快でそれなのに面白くない下ネタのシーンが入るところも、かなり評価を下げる。まあ良くも悪くもB級映画、という感じ。

『死ぬまでにしたい10のこと』

 

死ぬまでにしたい10のこと(字幕版)

死ぬまでにしたい10のこと(字幕版)

  • 発売日: 2016/02/01
  • メディア: Prime Video
 

 

 ガンで余命2カ月を宣告されてしまった23歳のアン(サラ・ポーター)は、「死ぬまでにしたい10のこと」のリストを書き出してそれを実行しようと生きることにした。リストには「娘たちに毎日愛していると言うこと」のほかにも「夫以外の男の人と付き合ってみる」「誰かが私と恋に落ちるよう誘惑する」という項目があって、思惑通り、カフェで知り合ったリー(マーク・ラファロ)という男と不倫関係になる。それと同時に夫(スコット・スピードマン)と娘のために自分の代わりとなる相手を探してあげたりもして……。

「死ぬ前に一番やりたいことが”浮気”って、お前の人生それでええんか?」という感想が先立ってしまう作品ではあるが、アンが23歳であり、17歳のときに付き合った夫のこをはらんでしまいそのまま彼と結婚して……という人生を送ってきたことを考えると、同情の余地はある。若くして二児の母親になってしまい、夫は優しいけれど甲斐性はなく、大学の清掃員の仕事を夜間にしており、同僚は延々とダイエットの話ばかり、アンの楽しみは量産品しか並ばないスーパーに行くことくらいしかなくて……と、(夫や娘との関係は良好であるとはいえ)もとから可能性が閉ざされていてロクな楽しみもない人生を送ってきた人が余命宣告をされる、というところがポイントの作品なのだ。

 だから、同じような「余命宣告もの」である『生きる』などとは狙いが全く異なっている。『生きる』が描こうとした「人生の意味」のようなたいそれたものは、『死ぬまでにしたい10のこと』は全く描こうともしていない。

 おそらく、アンと同じような貧困層であったり若いころの過ちに流されて不本意な人生を送っている女性が主な対象なのであって、そんな彼女たちにマーク・ラファロとの不倫というロマンスを提供することがウリの作品であるのだろう。英語のナレーションでは"You"が強調されるなどして、「もしあなたが余命2ヶ月と宣告されたらどうしますか?」と深刻な疑問を投げかけている風の作品ではあるが、そこで「じゃあわたしもワイルドなイケメンと不倫しちゃおっかな〜!」と照らいなく答えられる層こそが、この作品のメインターゲットなのである。

 不倫を描いているくせに、アンが夫にも娘にもリーにも余命のことを隠したうえでメッセージを残してスッキリしてからポックリと逝ってしまう、残されたものはそのメッセージを聞かされる、という展開のために、罪悪感を一切生じさせない作りになっている。実にご都合のよろしいことであるが、ロマンス物語なんてそんなものである、ということなのだろう。

 

 作中のテーマ曲はビーチボーイズの"God Only Knows"であり、印象的に使われる箇所が何度かあるのだが、わたしも"God Only Knows"が好きであるからこそ「こんな作品に使って名曲を汚すな」と思った。

 主演のサラ・ポーターは透明感や清潔感の漂う、魅力的な女優だ。一方で、ロマンスのお相手であるマーク・ラファロに関しては、実はわたしは昔から苦手である。コメディリリーフとして活躍するぶんにはいいのだが、ムチムチと肉付きがよくて髪はもじゃもじゃでヒゲも濃いマーク・ラファロはちょっと"雄度"が高すぎて、彼にロマンスをやられると胃もたれてしてしまうのだ。

『コーチ・カーター』

 

コーチ・カーター (字幕版)

コーチ・カーター (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 

 カリフォルニア州リッチモンド高校は落ちこぼれや貧困層の若者が集まる学校であり、生徒の大半がアフリカ系アメリカ人であるということもあって、卒業生の多くは逮捕されて刑務所で過ごす始末であった。そんななか、バスケットボール部のOBであるケン・カーター(サミュエル・ジャクソン)が、コーチとして赴任する。そして、学業の不振により大学に進学できる学生もひと握りなリッチモンド校の校風を嘆くカーターは、部員たちと「俺がお前らを大会で勝たせる代わりに、お前らは行儀や礼節をもって行動し学生の本分である勉強も行え」という旨の契約を結ぶのであった。

 カーターの強烈なスパルタ・トレーニングや、「ニガー」などのスラングを使ったり口答えをすることも許さない徹底的な指導、そして約束通りに大会での勝利に導くその手腕に、当初は反発していた部員たち( ロブ・ブラウン、リック・ゴンザレス、ナナ・グベウォニョ、アントウォン・タナー)もカーターのことを認めて彼を慕うようになっていく。しかしそこは所詮は体育会系の学生である彼らのこと、大会で連勝して調子に乗るバスケットボール部員たちはパーティーで礼節を忘れたバカ騒ぎをするだけでなく、「学生の本分である勉強を行う」というカーターとの契約も部員たちの大半は守っていなかったのだ。

 怒れるカーターは、「成績を上げるまで、バスケの練習も試合も禁止だ」と体育館を閉鎖してしまう。これには部員たちだけでなくリッチモンドの校長や部員の保護者達も反発して、マスコミも出動する大騒ぎになるが……。

 

 いわゆる「スポ根」ものでありながら、学生の本分である「勉強」の大切さを強調するストーリーであるところが実に好感を抱ける。

 たとえば、『BUNGO』という中学生野球の漫画では「俺は頭が悪くて勉強はできないから野球で頑張って推薦を勝ち取るしかないんだ」というキャラクターが出てきて周りの大人もそれを肯定してしまうのだが、「中学生が自分のことを“勉強ができない”と決めつけてしまい、勉強をせずに野球に打ち込むというリスキーで後々の人生に悪い影響が出る可能性の高い選択をすることを周りの大人が止めもしないのはダメでしょ」とモヤモヤしたものだ。

『コーチ・カーター』のなかでもバスケットボール部員たちの保護者や校長は「この子はどうせ勉強できなくて大学にも行けないんだから好きなだけバスケットボールをやらせてやるべきでしょ、それしか得意なことがないんだし、”高校生時代にバスケットボールに打ち込んだ思い出”よりも素晴らしいことをこの子たちが得られるわけないんだし」と決めつけているのだが、それを、カーターは毅然として否定するのである。実に「教育者」の鑑という感じで、素晴らしい。

 また、登場人物の大半はアフリカ系アメリカ人でありアフリカ系アメリカ人貧困率や収監率の高さにも言及している、反・人種差別的なメッセージの高い作品であることは間違いないのだが、一方でカーターが「規律」や「礼節」の重要性を強調するバランス感覚にも好感が抱けた。イマドキの作品だと「反人種差別」がカウンターカルチャー的な発想に結びついてしまい*1、「反体制」や「反秩序」を言い出して、「礼節とか規律とかも白人マジョリティの価値観の産物だから守らなくていい」とかになりかねないからだ*2。つまり、根本のところはかなり保守的でぬるい価値観に基づいた作品なのである。しかし、だからこそ、ポジティブな視聴感や普遍的な感動が得られる物語を描けているのだ。

 

 とはいえ、「勉強」や「規律」をめぐるドラマは面白いが、そのために肝心のバスケットボールの試合のシーンが物語をすすめるための舞台装置やおまけになっているという感はある。バスケそのものはこの作品のテーマではないのだが、話の内容的にバスケットボールの試合にもある程度の尺は割かなくてはいけない……というジレンマが伝わってくる。また、カーターによるバスケットボール部員の指導というメイン部分は面白いのに対して、個々の部員ごとのエピソードはかなり陳腐なものであるし(彼女が妊娠したけど進学したくてあーだとか、ヤクを売っているいとこが殺されてしまってこーだとか)、1990年代の名残がある2000年代初頭の作品ということもあって演出もところどころダサい。

 とはいえ、筋肉隆々の体育会系の若者たちがメインどころで数多く出てくる作品を見る機会がわたしにはあまりないので、そういう点では新鮮な楽しさもあった。体育会系の若者特有のテストテロンの高そうさは隠しきれず、「実際の話だったら、こいつら裏ではイジメとかもやっているんだろうなあ」ということをふと想像して、イヤな気持ちにもなったりしたけれど……。

 

『七つの会議』

 

●『七つの会議』

 

七つの会議

七つの会議

  • 発売日: 2019/09/11
  • メディア: Prime Video
 

 

 わたしは、たまにテレビ番組を見てみたときに、それがワイドショーやバラエティ番組であってもドラマ番組であっても、映像や演出や音楽や効果音などのケバケバしさやダサさや出演者の幼稚さなどにすぐに耐えられなくなって「気恥ずかしい」気持ちになってしまい、続きを見ていられなくなるようなタイプの人間である。同じような感覚は、ごくまれに演劇を見に行った時にも抱いてしまうし、シネコンなどでかかっているような大ヒットした日本映画を見るときにも感じてしまう(この作品の他には、たとえば『ドラえもん 新・のび太の日本誕生』を見に行ったときにも、「気恥ずかしさ」を強く感じた思い出がある)。

 わたしは社会経験や人間関係に乏しい生き方をしていたために、たとえば年少の子どもとか逆に老人とか、あるいは素人による趣味やサークルの集団がお祭りなどのイベントで行う「出し物」を見るときに、どう反応すればいいかわからなくてぎこちなく作り笑いをすることしかできず居心地の悪い思いをしながら「はやく終わって、この場から去らせてくれないかな」と考え続けるタイプの人間である。そして、日本のテレビ番組や演劇やメジャー映画などを見るときにも、素人や子どもの「出し物」を見ている時と同様の感覚を抱いてしまうのだ。

 

 で、この『七つの会議』も、日本の映像作品の悪いところが煮詰まったかのような、「映画」というよりも「出し物」というレベルでしかない、見ていて居心地の悪い気持ちにさせられるタイプの作品である。

 ……とはいえ序盤は「わざと何でもかんでも大袈裟に表現したり演技したりする」「くだらない内容を大真面目に描く」という意図であることすぐに伝わって、ギャグにもところどころ笑えてしまい、「くだらないけどたまにはこういうのを見るのも悪くないかな」と好意的に見ることができた。

 ……だが、中盤になるにつれて話の内容が社会派風に深刻っぽくなっていってしまい、それに反比例するかのように展開は単調になり画面もずっと同じでただただ陳腐な長ゼリフと暑苦しい演技が繰り返されるようになってしまうために、笑うことすらできなくなってしまう。

 おそらく、作り手と観客との間には、つっこみどころが大量にある安直なストーリーとか大袈裟で暑苦しい演技とかは「わざとやっていますよ」ということが共有されているのであり、それを真面目に指摘すると「野暮」とか「ネタにマジレスw」とされてしまうのであろう。観たことないけど『半沢直樹』も『七つの会議』と同様の作風をネタにしてウリにしている作品であるようだし。しかし、『プロメア』のときにも書いたが*1、そういう「お約束」とか作り手と観客との共犯関係って実に不誠実で反知性的でつまらないと思う。

 

 映画のストーリーはあらすじを書くにも値しないどうでもいいものであるし、俳優たちについても「わざと大袈裟に演技しろ」と指示されていることが明確なので、縁起が良いか悪いかすらよく判断できない。まあ野村萬斎香川照之は確かに熱度とか圧力みたいなのは感じられた。一方で、社長役の人は明確に演技がヘタだったと思う。

『ザ・ファイブ・ブラッズ』

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 原題は『ダ・5・ブラッズ』(これくらい原題通りのタイトルにしてしまえばいいと思う)。スパイク・リー監督による、ベトナムに従軍した黒人兵士たちの物語。マルコムXキング牧師を思い浮かばせるカリスマ的な隊長ノーマン(チャドウィック・ボーズマン)の元で戦争を戦い抜いた4人の黒人兵士たちが、体調の亡骸、そして戦時中に発見した黄金を回収するために、トランプ当選後の現代になってから、ベトナムに舞い戻る。

 戦争によるPTSDに苦しみ狂気的になっているポール(デルロイ・リンドー)、知性派で4人の中ではリーダー格なオーティス(クラーク・ピーターズ)、財布役でお人好し感の漂うエディ(ノーム・ルイス)、いまいち特徴のないメルヴィン(イザイア・ウィットロック・J)たちのもとに、計画を嗅ぎつけたポールの息子デヴィッド(ジョナサン・メイジャーズ)も加わる。そしてめでたく金塊を発見できた5人であったが、その金を自分たちのために使うかノーマンの遺言通り黒人解放運動に使うかで意見が割れて、内紛が起こる。

 そこで戦争の爪痕である地雷が原因の悲劇的な死が起こり、さらには地雷処理ボランティアの若者たちや現地の元兵隊たち、強欲なフランス人たちも金塊を狙って集まり、血で血を争う事態になってしまって……。

 

 冒頭はポールのPTSDが描写が不穏さを放っているとはいえスパイク・リー監督お得意の「ブラック・カルチャー・あるあるネタ」や政治状況に対するジョークや『地獄の黙示録』のパロディなどを交えながら比較的のびのびとすすんでいくために、「ゆるい雰囲気の映画なのかな」と思わされてしまうが、それゆえに後半の殺し合いになる展開はちょっと衝撃的だ。黒人同士の"連帯"を強調するわけでもないところも意外(けっきょく最後はそういう雰囲気になるものの)。

 殺し合いになってからは展開がけっこうグダグダになってしまい、けっして完成度の高い映画ではないと思うが、オリジナリティはしっかり感じられる。また、戦後のPTSDベトナムに種を残してきた子供たちの話なども含めて、2時間半という尺をしっかり使って「ベトナム戦争に従軍させられた黒人兵士」というテーマを様々な側面から濃密に描いている(だとしても2時間半は長過ぎると思うが)。深刻になり過ぎず軽快なタッチであるし、普通の作品ではなかなか俎上にあがらず意識できないような問題を取り上げて物語にしてくれるだけでも、価値があるというものだ。ベトナム戦争時のシーンと現代パートとの映し方の違いをはじめとして工夫や遊び心も大いに感じられて、いいと思う(終盤における『地獄の黙示録』パロディはちょっとしつこいと思ったが)。 

 終盤で露骨にBLMという現代的な事情に繋げてくるところも、作品の完成度という点では明らかにマイナスだし、たとえばこれが他の作品を押し抜けてアカデミー作品賞を獲得するとなったら文句を言いたくなるが、他の監督たちが撮る作品とは全然「違う」作品であることは確かだ。同じような作品ばっかり見させられるよりも、こういう作品があったほうが全然いい(『ブラック・クランズマン』もわたしのなかでは同じようなポジションの作品だ)。

 それに、BLMをはじめとした黒人差別の問題について色々と考えさせられてしんみりしたり居心地が悪くなったりしたこともたしかだし。北ベトナム側が、プロパガンダとして黒人兵士に対して白人への抵抗を呼びかけるラジオを流していたというエピソード(そこで主人公たちはキング牧師の死を知らされる)は、実に印象的だ。

 

 俳優という点では、主要メンバーのなかではチャドウィック・ボーズマンはもちろんのこと、 クラーク・ピーターズとノーム・ルイスとジョナサン・メイジャーズが良かった。また、悪役としてジャン・レノが出演しているところも良いし(ジャン・レノなんて見るのも久しぶりだ)、ちょい役として出てくるポール・ウォルター・ハウザーも相変わらず強烈な存在感を放っている。

 戦争が舞台なだけあって、女性の存在感のなさが目立つ作品であることもたしかだ。いちおうヒロイン的なポジションとしてメラニー・ティエリーが出演しているが、それよりもハノイ・ハンナを演じるェロニカ・グゥの方がずっと記憶に残る。また、この作品におけるベトナム人たちはアメリカ内部の人種差別問題のとばっちりを受けるような形で殺される存在であり(それ自体がベトナム戦争の再現とも言えなくもないが)、現地の人からすれば気分の良くない作品であることはたしかだろう。まあでも、全方位に配慮した作品にしてしまうと肝心のメッセージが薄れてしまうのだから、仕方がないことなのだろう。